日本の「ゴルフ」黎明期 進駐軍から返還されたゴルフ場で「小佐野賢治」もプレーした〈日本ゴルフの60年史(1)〉

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 60年前、日本のゴルフ界で新たな歴史が幕を開けた。進駐軍から返還された名門「川奈」で政商、小佐野賢治が接待ゴルフを開始。ソニーの井深大や小林秀雄がデビューしたのもこの頃だ。作家、早瀬利之氏の筆で往時の光景が鮮やかに甦る。

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 横浜のある海運会社社長の自宅の床の間には、掛け軸や骨董品ではなく、赤い衣をまとった、愛しい“恋人”が飾られていた。アメリカ生まれの“恋人”である。休日ともなれば、社長はうっとりとこれを愛でる。時折チャックをあけ、中を覗いてはニンマリしている。酒席を用意し、重役たちを招くと、自慢げに見せびらかした。

「中を見せてくださいよ」

 常務が懇願すると、

「お前達には猫に小判だ」

 と社長はもったいぶる。

「チャックをあけていいですか」

 と興奮気味の常務に、

「女の肌をさわるように、そおっとだぞ」

 と言い含める。

「女のあすこを見る時のように、ですか」(常務)

「手をふれちゃいかんぞ」(社長)

 辛抱しきれず、常務が手荒くファスナーをあけると、「こらっ!」とその手を叩いてやめさせた。

 床の間に飾られていたのは、フルセットの輸入ゴルフクラブを入れた赤い牛革のキャディバッグである。恋人も同然の社長愛用の高級品だった。今から六十年前、まだゴルフが一部の金持ちの娯楽だった時代の光景だ。この社長に限らず、当時のゴルファーの多くは、キャディバッグを床の間に飾り、眺めたものである。

 昭和三十年前後は、日本が戦後の焼け野原から復興を遂げ、ゴルフ場も次々と営業再開した時期だ。やがて迎える大衆化に向け、まだとば口に立ったばかりの黎明期のゴルフシーンを振り返りたい。

■日本人のプレーは厳禁

 戦後、進駐軍に接収されていた各地のゴルフ場が日本人に返還され始めたのは、昭和二十七年四月からで、講和条約調印から半年後のことである。返還されたとはいえ、戦時中に芋畑になり、荒れ放題の状態のものや、戦後満州や朝鮮からの引揚げ者が、難民キャンプの如く住み着いてしまったままのゴルフ場もあった。

 あの名門「川奈ホテル」の36ホールは最初、米軍に接収されたが、その後、英・豪州軍に抑えられていた。昭和二十七年四月に返還される迄は、日本人のプレーは厳禁だった。しかし戦後、成金になった証券会社の社長たちは、近くに住む陳清水プロ邸に集り、米軍たちが引揚げる三時頃、バッグを担いで忍び足で潜入して、ハーフを回った。

 またオーナーの大倉財閥二代目総帥、大倉喜七郎はクラブハウスに入れてもらえなかったので、米兵に見つからないように裏口からこっそり出入りしていた。

 ホテルとゴルフ場が返還されると、まっ先にプレーしたのは、資金繰りに目途が立たない大倉を支援するため法人会員制度を持ちかけた日本興業銀行の佐分利一武副頭取だ。これに日清紡の桜田武社長、国策パルプの水野成夫社長、東京海上火災の田中徳次郎社長など、メンバーコースを持たない会社経営者らが加わっていた。佐分利副頭取らは、無記名(非個人)の法人会員となった。この資金で、閉鎖していた大島コースが復元され、三十年春頃から営業が再開される。川奈はセミ・パブリックに近い会員制で再スタートを切ったわけである。

 9ホールが芋畑だった小金井CC、程ヶ谷CCは戦後、進駐軍用に再開され、やはり二十七年四月頃、返還された。しかし、会員ではない戦後成金の経済人はセミ・パブリックの川奈ホテルへ足繁く通っている。

 その代表的なプレーヤーが、政商と呼ばれた国際興業の小佐野賢治、照国海運の中川喜次郎社長、日本興業銀行の重役たちなどだ。
とりわけ小佐野や中川は、キャディたちの人気を買った。二人ともまだ髪はフサフサの好男子の時分である。

■「接待ゴルフ」の始まり

 中川は、川奈に行くたびにプロ研修生のため十万円とカステラを届けて応援。さらに従業員の慰安旅行のときは、十万円を寄付し、「旅費に使って下さい」との手紙まで添える。サラリーマンの大卒平均初任給がまだ七千円の時代である。

 小佐野の場合は、

「ラウンド中に国鉄のパス券入りの財布を落とした。お金はいいんだが、パス券は大事なものでね」
 とキャディマスター室に駆け込んだことがある。全員で3ホールずつに分れて捜すが見つからない。

 次の週末、

「実は車の座席に落ちていた。色々すまなかったな。ほんのお礼だ」

 と言って、封筒を自らキャディマスターの森田吉平に渡し、スタートして行く。森田が語っている。

「封筒は五センチの厚みがあった。中を見ると、千円札がいっぱいで、テーブルにドンと立った。十万円入っていたよ。従業員の慰安旅行費に積み立てた。あの人の厚意には皆んな喜んだものです」

 小佐野は「ナイスショット!」と誉められるたびに女性キャディに千円ずつ渡している。それらの金もキャディマスターが管理して、従業員の慰安旅行費に積み立てていた。

 彼らのゴルフは、主に接待を目的とした「業務ゴルフ」だった。日本における接待ゴルフは、昭和三十年頃の川奈ホテルに始まったのである。「前泊二日のプレー」スタイルは人気を博し、昭和三十年から三十五年にかけてピークに達した。これに眼をつけたのが池田勇人蔵相である。

「ゴルフは娯楽だ。食堂にはホテルなみに課税だ」

 と、ゴルフ場にもパチンコや競馬競輪同様に娯楽施設利用税を課した。

(文中敬称略)

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(2)へつづく

「特別読物 『小佐野賢治』『井深大』『小林秀雄』も夢中だった 日本ゴルフの60年史――早瀬利之(作家・ゴルフ評論家)」より

早瀬利之(はやせ・としゆき)
昭和15年、長崎県生まれ。鹿児島大卒。雑誌記者、「アサヒゴルフ」編集長を経て、作家活動に専念。著書に『偉人たちのゴルフ』『石原莞爾と二・二六事件』などがある。

週刊新潮 2016年3月24日号掲載

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