「接待ゴルフ」の誕生 若き日のソニー創業者も興じた〈日本ゴルフの60年史(2)〉
作家でゴルフ評論家の早瀬利之氏が、戦後から現在に至るまでの日本ゴルフ界の歩みを描く。昭和二十七年四月、進駐軍に接収されていた各地のゴルフ場が返還され、名門「川奈ホテル」のホールや、「小金井CC」、「程ヶ谷CC」が再開。「川奈」では、政商・小佐野賢治ら戦後成金の経済人たちが接待ゴルフを始めた。
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戦後の成金には、朝鮮動乱の特需で大儲けした鉄鋼、造船、船舶、港湾業務関係の中小企業が多かった。なかでも横浜の経済人には戦後成金が多く、横浜銀行の課長クラスまでが、程ヶ谷CCで彼らから接待を受けた。接待ゴルフに絡んで騒動に発展した例もある。
「油の出る石」と呼ばれる南米産のリグナムバイタは、船のスクリューの軸受けに使われる。横浜・関内にあった西野商事という会社は、全国の造船所向けに、この輸入石、リグナムバイタを加工して販売していた。業務拡張のために横浜銀行からの融資を切望した西野譲介社長(後に日本ゴルフ協会常任理事)は、当時の融資担当常務を程ヶ谷CCで接待することになっていた。
ところが常務は忘れていたのか、無視したのか、ゴルフ場に姿を見せない。会社に戻ったあと、近くの料亭に行ってみると、当の常務が床柱を背にして、他の業者の接待を受けている。
「待っていたんですが」
と言うと、その常務は「忙しくて行けるわけないだろう。川奈なら行きたいがの」と、しれっとした。これに西野社長の怒るまいことか。
「横浜銀行の筆頭株主になって、奴を追い出してやる」と恨んだ。実際、“浜銀株買い占め”に動き、ついに個人筆頭株主になって、その常務を放逐したのである。株主vs.銀行の「浜銀騒動」の余波はその後も収まらず、ついにはフィクサーと呼ばれた右翼の大物、児玉誉士夫が仲裁に入り、手を打たせる事態にまで発展した。“政財界の黒幕”が暗躍したため、これ以後、横浜銀行には大蔵省銀行局からの天下りが始まる。元を正せば接待ゴルフが原因だった。
■芸者同伴の禁止
同じく昭和三十年頃、株主会員制の小金井CCで女性連れでプレーしたところ、ゴルフ場側から「女同伴はまかりならん」と苦言を呈され、自分でゴルフ場を造ってしまった男がいる。
朝鮮動乱当時、株で大儲けし、映画にもなった「兜町の牛チャン」のモデル、佐藤和三郎である。佐藤は、週末ともなると、会員になった千葉県の鷹之台CCや小金井CCにロールスロイスで乗りつけ、芸者二人を連れてラウンドした。浴衣のような着物姿の芸者たちは、日傘代わりにゴルフ場名の入った蛇の目傘をさし、下駄ばきで佐藤と一緒にフェアウェイを練り歩く。
その姿が余りにも目立った。ついにゴルフ場の理事たちから「今後、芸者同伴は禁止する」と言い渡されたのである。
「あいつら、モテないからオレを追い出しやがった」
と激怒した佐藤は、江の島と富士山が眺望できる鎌倉市腰越の高台にプライベートの18ホール「江の島GC」を開場させた。
のちに株暴落で没落し、ゴルフ場は御殿場に移った。跡地は今、高級住宅地になっている。存続していれば、今頃は関東一のゴルフ場になっていただろう。
■「一千万円出すから、いいボールを」
財界人の若き日の苦労話も紹介しておこう。ソニーの創業者・井深大と副社長の盛田昭夫がゴルフを始めたのは、同社を株式上場した昭和三十三年である。その三年前、二人はアメリカからラジオのバイヤーを夫婦で招待し、なけなしの金を払って箱根の富士屋ホテルに泊めた。翌日、仙石原のゴルフ場にこの社長夫妻を案内する。井深らはその時初めてゴルフ場と、ボール、クラブを見たのだった。
痩せ細った二人はキャディと一緒に、夫妻の後からついて歩く。その時ふと井深が盛田にこう言った。
「盛田君、オレたちも、ゴルフできるようになれるだろうか」
すると、実家の酒屋「ねのひ」や井深の母の知己である、『銭形平次捕物控』の作者、野村胡堂からまで借金するなど、金策に走り回り、青息吐息だった盛田には、とてもそんな余裕はなく、
「……そうですね……」
それからは無言だった。小型トランジスターラジオをソニーのブランドで売り出したばかり。だが、このラジオの大ヒットで、三年後に二人が「親の仇」とばかりにゴルフを始めたことは前述の通り。そのうちにボールが曲がる原因が、スイングだけではなく、ボール自体にもあると疑い、ついにはレントゲンで透視。知人で、ボール製造会社ブリヂストンタイヤ社長の石橋正二郎を入院先に見舞った時、「おたくのボールの中には芯がズレたものがある」と進言した。これを受け、石橋はその場から担当常務に電話をかけ「開発費として一千万円出すから、いいボールを造れ」と命令している。
(文中敬称略)
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「特別読物 『小佐野賢治』『井深大』『小林秀雄』も夢中だった 日本ゴルフの60年史――早瀬利之(作家・ゴルフ評論家)」より