“残留”を決め、疲労困憊の看護師たち 「心の中で3人は殺しましたよ」〈原発25キロの病院に籠城した「女性看護師」の7日間(2)〉
福島出身のノンフィクション・ライター、黒川祥子さんが描く、南相馬市「大町病院」の1週間の物語。福島第一原発事故により、原発25キロに位置する大町病院は「屋内退避」の指示下に置かれ、残された入院患者160名を前に、職員は“避難か残留か”の選択を突きつけられることとなった。結果、看護部長の藤原珠世(当時52)たちは残ることを決めた。
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南相馬市「大町病院」
一方、去って行く側にとってもそれは苦渋の決断だった。3階東病棟は15日夕、管理職を含め全員が避難を決めた。師長、村田陽子(仮名、当時48)は言う。
「部長は“大丈夫だから”と言い続けるけど、何が大丈夫なのか。私は疑問しか感じなかった」
物流は止まっていた。点滴もオムツも経管栄養も、すでに少なくなり、医師の判断で点滴の速度を緩め、量の調整を行うまでに。オムツ交換の手間を少しでも軽くするために、全病棟で急遽、管を入れて尿を採る措置も講じた。給食委託会社がまもなく撤退することも、伝わってきていた。
これでも「大丈夫」なのか、果たして医療ができる環境といえるのか。村田の目には絶望しか映らない。
しかもスタッフには、乳飲み子や幼子を持つ若い看護師が多かった。村田自身は未婚だが、年老いた両親を抱え、心配する姉たちから「おまえだけの親ではない」と言われたばかり。
村田は部下に伝えた。
「子どもがいる人は、避難していいから」
「子どものミルクもオムツもないんだよー」と泣いていた看護師が、首を振った。
「師長さん一人だけおいて、避難でぎねえよ。避難なんか、でぎねびした!」
自分が、避難の妨げになっていた。村田は「辞表覚悟」で、全員の撤退を決めた。
「同僚と一緒に車に乗って病院を去る時、雪が舞っていたのを覚えています」
そう振り返った瞬間、村田は両手で顔を覆った。
去っていく看護師たちは、みな涙を流していた。
残ることを決めた3階南病棟の主任、川崎美沙(仮名、当時32)は、それを違和感を持って眺めていた。
「私にもし、小さい子どもがいたら絶対に避難する。だから、泣く必要も謝る必要もない。これは、しょうがないこと。残されたとか、置いて行かれたとか、残った側がまるで被害者のように言うことではない」
■“3人は殺しました”
「屋内避難」の指示とはいえ、原発から25キロに位置する大町病院に“残った”強者たち
200名の職員のうち、勤務を選んだ看護師は17名。うち7名は24時間勤務を担うことになった。
「長い1週間」が始まった。
看護部長・藤原は言う。
「食事介助とオムツ交換が必要な29人の患者さんを、ほぼ一人で見ることに。木村さんと一緒に泊まって、2人でがんばろうねって」
医局秘書の事務、木村愛(仮名、当時27)が食事介助を行う横で、医師が慣れない手つきで食事を食べさせていた。部署に関係なく誰もが、やれることをやっていた。
最も多い入院患者54名を抱える4階病棟。歩ける患者は一人だけ、ほぼ寝たきりで、認知症患者も多い。息子の訴えを振り切って残った、療養病棟勤務の看護師・野口真理子(仮名、当時45)は言う。
「患者さんを、残った2人で半分に分けたの。オムツ交換して詰所に戻ると、すぐにご飯。それが終わると、またオムツ。検温は1日1回しかできない」
ナースステーションのこたつで仮眠をとるもほとんど眠れず、口にするのは支援物資の甘いパン。日中は「あんたたちに倒れられると困るから」と、オペ室や透析室など他の部署の看護師が替わってくれたが、気が張っていて眠れない。
「疲労困憊で回っていて、うんちまみれでうんちを壁になすりつけ、おしっこの管をくわえてる患者を見た時には、ああ、どうしようと絶望的な気持ちになりました。心の中で3人は殺しましたよ。こっちは3日も4日も寝てないのに、よくもこんなこと、やってくれっかって正直、思いました」
2人でいたから笑い話で済んだと言う野口。夫と娘を山形へ避難させた、2階北病棟の師長、中山敦子(仮名、当時40)も言う。
「突然“もう帰ろう”と思うんです。“もうどうしようもない、帰らなきゃ、子どものとこに行かなきゃ”って。でも一方で“ああ、違う、違う。患者さんがいる、やらなきゃ”とも思う。それが波のようにやってくるんです」
子どもと引き裂かれているのが、何よりつらかった。
「“ごめん”と同僚に言って、10分ぐらい布団をかぶって泣いてから、仕事をしてました」
(文中敬称略)
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「特別読物 迫る放射能汚染! 医療物資搬入停止! 原発25キロの病院に籠城した『女性看護師』の7日間――黒川祥子(ノンフィクション・ライター)」より
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