「私たちは、いつ避難できるんですか!」 次々亡くなっていく患者たち〈原発25キロの病院に籠城した「女性看護師」の7日間(3)〉

国内 社会

  • ブックマーク

 福島第一原発事故を受け、南相馬市・浜通りの大町病院には、政府から「屋内退避」の指示が出された。避難を選ぶ者もいる中、残された患者たちのため、留まることを決めた職員は、看護部長の藤原珠世(当時52)、2階北病棟の師長、中山敦子(仮名、当時40)、療養病棟勤務の看護師・野口真理子(仮名、当時45)たち。自らの身を捨て他者を救った人々の姿を、福島出身のノンフィクション・ライター、黒川祥子さんがレポートする。

 ***

津波にのまれた南相馬市

 暖房もない病室で重症患者がじっと耐えていた。17日からは院長・猪又義光の指示で、食事は朝と夜の2回になった。市内の病院は避難が完了したというニュースが入ってくる。蓄積する疲労と焦燥感で、看護師たちの心は千々に乱れていく。

 17日夜、思い余ったある看護師が部長に直談判した。藤原ももちろん覚えている。

「仮眠をとっている時に泣きながらやってきて“私たちはいつ避難できるんですか! お願いです、今、消防にかけ合って!”と言うから、“勝手にはできないんだ。あんたも私も疲れてんだから、早く帰って寝なさい”って追い返した」

 18日昼、今度は中山たち、24時間勤務を担う看護師のほとんどが、院長に思いのたけを訴えに向かった。

 中山は言う。

「とにかくもう、じっとしていられなかった。どうにかしなくちゃと思いました。外からは、避難する最後のバスが出るという広報車の呼びかけが聞こえてくる。じゃあ、私たちはここにいていいの? と」

■「いつまでがんばればいいんですか!」

避難を選ぶ者もいる中、残された患者たちのため、留まることを決めた職員

 毎日、患者が亡くなっていく。15日2名、16日1名、17日1名、18日2名……。中山は言う。

「やるだけのことを目一杯やっているのに、最低限のことしかできない。患者さんを早く搬送してほしい。ギリギリのところでやっている私たちの気持ちを、院長にわかってほしかった」

 同じ思いを抱えていたのが4階の野口である。経管栄養剤の在庫は底をつきつつあり、1日3回栄養剤を入れるところを昼はお湯に変えた。薬品がどれだけあるかわからないから、患者が熱を出しても布団をかけることしかできない。

「私達もロボットじゃない。何日、眠らないでやれるのか。残っているメンバーにも限界はくる。いつまでがんばればいいのか、目標がないのがつらかった」

 3階東病棟にいた外来師長の石井芙美子(仮名、当時60)は中山の訴えを聞いた。これから院長のところへ行くから、一緒に行かないかという。

「部長は3日、がんばれ! って言うけど、石井さん、3日って一体、いつなんですか! 私たち、いつまでがんばればいいんですか!」

「今は、やるしかないのよ」

 石井は心を鬼にして言った。

 当の院長も、詰め寄った看護師たちにこう言った。

「俺が“撤退か、解散”と言うのを望んでいるのか。でも俺は医者として絶対、そんな言葉は言えない」

 猪又は振り返る。

「爆発当初は避難も考えたけれど、1週間だけ経過を見ようと思った。すると、空間線量がぐっと下がった時期があった。で、これならいいぞ、籠城しようと判断した。避難をオッケーするわけがない」

 中山たち看護師にしても、今さら避難するつもりはなかった。十分な看護が刻々とできなくなっている以上、このまま続けるのは無理だと、現場の思いを院長に伝えたかった。

 もう限界――。それは誰の目にも明らかだった。

(文中敬称略)

 ***

(4)へつづく

「特別読物 迫る放射能汚染! 医療物資搬入停止! 原発25キロの病院に籠城した『女性看護師』の7日間――黒川祥子(ノンフィクション・ライター)」より

黒川祥子(くろかわ・しょうこ)
1959年、福島県伊達市生まれ。東京女子大学卒業後、専門紙記者、タウン誌編集者を経て独立。家族や子どもを主たるテーマにノンフィクションを発表し続ける。主な著書に『誕生日を知らない女の子』(開高健ノンフィクション賞受賞)、『子宮頸がんワクチン、副反応と闘う少女とその母たち』など。橘由歩の筆名でも『身内の犯行』等の著作がある。

週刊新潮 2016年3月17日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。