話題の香港アクション映画にも登場 「世界一危険な空港」100周年で名物の“低空飛行”が復活 「香港カーブ」を懐かしむ声も
「世界一着陸が難しい」と言われた理由
滑走路13の基本的な飛行ルートを地図で見ると、大嶼(ランタオ)島の南から右斜め上(北東)に進み、現在の香港国際空港があるあたりで右(東)に曲がる。そして、速度と高度を落としながら啓徳空港の北にある獅子山に向かって飛行するが、滑走路は右斜め下(南東)に伸びているため、最後にもう一度方向を変えねばならない。
その目印は赤白チェック模様の標識が描かれた小高い丘、チェッカーボード・ヒル。獅子山近くにあるこの丘のそばで行う“右47度の旋回”が、かの有名な「香港カーブ」である。滑走路はもうすぐそこと言える位置で、低空で旋回しながら滑走路に滑り込むという大胆な技を、ボーイング747といった大型機が連日やってのけたわけだ。
しかも、周囲は低層のビルが密集し、誘導灯はビルの上。ナイトフライトでは建物の灯りと紛れないよう、誘導灯だけが明滅していた。気象条件も厳しく、空港周辺は風が変わりやすい上、そもそも雨と台風が多い土地だ。“難条件のデパート”となった啓徳空港は、「世界一着陸が難しい」「世界一危険」とまで言われていた。
乗客にとっても、着陸までの過程はスリリングだった。道行く人の表情が見えるのではと思うなか、建物に突っ込みそうなほど下がる高度。不意に傾きを感じて窓の外を見れば、主翼を大きく傾けている様が確認できた。「そろそろか」と思ってから少しすると、ズドンという音とともに接地。そんなダイナミックな着陸を、古き良き香港旅行の思い出としている人も多いだろう。
閉港直前の旅客数は世界1位、貨物量は3位
啓徳空港はもうひとつ、「世界一の過密空港」という顔も持っていた。80年代にはすでに許容量をオーバーしており、閉港直前の旅客数は世界1位、貨物量は3位。朝から深夜0時までのあいだ、一日平均450便が1本の滑走路で最高1分おきの離着陸を繰り返していた。
上空ではつねに大量の飛行機が着陸を待ち、進入ルートでは8~9マイル(約12.8キロ~14.5キロ)間隔で飛行。「香港カーブ」を経て無事に着陸しても、滑走路から離れるまでの時間は120秒以内とされた。悪天候などでゴーアラウンドとなれば、順番を並び直すことになる。時には離着陸が同時に行われることもあった。
この過密を解消するため現在の香港国際空港が建設されたものの、1997年7月1日の香港返還と同時に全面開港というスケジュールは実現しなかった。返還の前後、一部は新空港を使用しつつ、啓徳空港には世界各国からの旅客が殺到。遅延に次ぐ遅延という事態に見舞われながらも、なんとかすべての旅客をさばき切った。しかもその1年後に役目を終えたはずが、新空港のトラブルで貨物ターミナルのみ稼働させた期間もあった。
英国植民地時代の後半、野原にできた小さな空港は戦争を経て、発展する香港の象徴となった。そして返還という香港の分岐点においても、持てる限りの能力を駆使した。香港のために働き続け、頑張り抜いたこの啓徳空港を、誰もが懐かしく思い出すのは当然のことだろう。