息苦しい令和に「昭和のゆるさを見直してみてもいいのでは」 養老孟司さんが「SDGs」を疑う深いワケ

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 今年は昭和元年(1926年)から100年目ということで「昭和100年」を記念したテレビ番組や雑誌記事が目立つ。テレビ東京で3月9日に放送された「池上彰の昭和100年&令和の挑戦者SP」もその一つ。

 この番組のインタビューに答えていたのが『バカの壁』で知られる養老孟司さんだ。

 ここで養老さんは昭和を振り返りつつ、こんなことを語っていた(大意)。

「昭和の時代は、酒やタバコに寛容だったし、立ち小便すらも珍しくなかった。ゆるさがあった。人々の多様な生き方を許容していたという点では、実は今よりも多様性を認める社会だったのではないか。昨今、SDGsなどと言い、多様性をしきりに口にするけれども、本当にそこに向かっているのだろうか。もっとゆるさがあっていいのではないか」

 この発言にネット上などでは共感と反発、両方が見られる。

 共感は「たしかに昭和のほうが大らかだったかも」という声。

 一方で「タチの悪い酔っ払い、所かまわぬ喫煙、立ち小便なんて多様性と関係ない! 迷惑だ!」といった声も見受けられる。それもまた道理である。

 もっとも、後者は発言の真意をくんでいるとは言い難いかもしれない。「立ちション」その他はあくまでも例であって、養老さんが提起している問題は、現代社会の息苦しさに関するものだと捉えるのが常識的なところだろう。

 実は養老さんは新著『人生の壁』でもこのテーマについて語っている。以下、その真意に耳を傾けてみよう(同書をもとに再構成しました)。

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立派な標語は信用できない

 西洋思想あるいは、西洋の理想で世界を一つにまとめてしまう、縛ってしまうのはとても難しい。それはあくまでも一つの考え方や立場に過ぎない。

 一つの思想だけで考えると、どうしても世界中を一律のルールで縛ろうとする方向に進みがちです。しかし、現実の世界に適した決まりを世界規模でつくるのはとても大変なのです。

 環境破壊とは、西洋思想やそこから生まれた科学技術をベースにしたグローバリゼーションの負の面ととらえることができます。

 熱帯雨林に限った話ではありません。地球の気温ですら人間が何とかできる、科学技術でコントロールできると考えています。だから「温暖化防止」などと言うのです。

 1993年に日本が締結した「生物多様性条約」あたりも西洋思想によってつくられたものの典型です。これは、日本が議長国となった「COP10(生物多様性条約第10回締約国会議)」でのニュースが記憶に新しいかもしれません。「多様な生き物や生息環境を守り、その恩恵を将来にわたって得る」という目的で締結された条約のことです。その理念を悪いとは言いませんが、西洋側、先進国側の都合が先に立っているようにも見えます。

 こうした主張をしている人たちが、たとえば何をしているのか。生物の多様性を守ろうと言って、ラオスのような国に対しても規制を加えようとしています。自然保護のためには、虫を勝手に採ってはならない、というのです。

 ラオスには若原弘之君という昔からの虫仲間が住んでおり、私も何度も虫採りに行きました。彼は昆虫採集のプロとして、そういう規制についての相談をラオス政府から受けているとのことでした。

 しかし、現地の人たちは大昔から虫を食糧にしながらも、長い間、問題なく共存してきたはずなのです。彼らは虫の生息地を必要以上に荒らすようなことをしていません。

 それなのに、今になって国連などが「自然保護」という理想やお題目を掲げ、それまで関心を持たなかったような人たちが一方的な規制を求めることに、どれほどの意味があるのでしょうか。どう対処すればいいのか、若原君もお手上げのようです。

エアコンの効いた部屋でSDGsを語り合う愚かさ

 ラオスでの虫採りのルールを国際ルールと同じにする必要があるのかは、はなはだ疑問です。

 近頃は、SDGsが大切だといって、世界中でそれを理想にしようという話をしています。理想の一つとして自然の中で暮らす人たちを持ち出す。

「こんなふうに環境に優しい生活を目指しましょう」

 しかし、そういう人たちの写真パネルが飾られているのは、完全に自然と切り離された国際会合の場です。ニューヨークのコンクリートでできた立派なビル内のエアコンが効いた部屋で、SDGsを話し合っている。とても本気とは思えない。そのこと一つとっても、容易には昔の世界に戻れないことはあきらかではないでしょうか。

 今のように人工的な世界をどんどん拡げていくことにも限界があるのは間違いありません。その限界に気づいているからこそ、SDGsなどと言いだしたのでしょう。

 SDGsのためにということで標語みたいなものがいくつも並んでいます。こうすれば世界は良くなる、というのでしょう。

 しかし私は立派な標語を並べているのは、やる気がない証拠だと思っています。かつての一億玉砕、本土決戦というのと大差ない。

「生物多様性」という言葉にも似たようなものを感じます。もちろん生物は多様ですし、その多様性を大切にしようということに反対するわけがない。でも、これを国連のような場で標語のように唱えていることに、嘘くささを感じるのです。

 多様性は自然の中で「感じる」ものであって、「多様性」などという一つの単語でまとめてしまえるものではありません。「感覚」を言葉で簡単に置き換えられると思っているのが、現代の人の大きな勘ちがいなのです。

 実のところ、「多様性」を大切にしようなどと日本でも世界でも言っているのに、現実の社会はどんどん正反対の統一化に進んでいます。私の若い頃は、働かないでブラブラしている人なんて世間に珍しくありませんでした。そういう人については、「そういうものだ」と受け止めてとくに気にもとめなかったのです。

 町には上半身服を着ていない人がウロウロしていました。肉体労働の人は、そうしないと大変だからです。でもそれが許されなくなって、暑い中でも作業着を着るようになった。

 感覚ではなく意識が優先される社会、それを脳化社会と呼んできたわけですが、世界全体がその方向に進んでいくと、多様性を認めなくなります。言葉はすべてを同じにする、「統一」するからです。「リンゴ」と一言でまとめると、このリンゴも、あのリンゴも同じになる。でも、それぞれよく見れば大きさも違うし、食べてみれば味が違うこともあるでしょう。

 そういうことを考えないまま多様性を大切にしようなどと言ってもあまり意味はないのではないでしょうか。

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 どこででもタバコを吸い放題、立ち小便も珍しくない。そんな時代に逆行したいと思う人は滅多にいない。一方で、行き過ぎたコンプライアンス、正義の暴走といったことが問題視されることも増えてきた。その際に錦の御旗のように使われるのが、養老さんのいうところの「立派な標語」であることも多い。そうした標語を使う人が時に他人を黙らせ、他人を糾弾する。

 できるだけ多くの人にとって快適な「ゆるさ」を考える必要が増しているのかもしれない。

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