人妻教員に惚れ、海外まで追いかけた学生時代…51歳男性を暴走&迷走させた“ぶっ飛んだ”母の教え

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【前後編の前編/後編を読む】妻とは別に「部下のスタッフ」と20年、都合のいい二重生活はなぜ崩壊…「怖くてたまらない」51歳社長の嘆き

 結婚してから本気で愛する人に出会う可能性は捨てきれない。妻も彼女も、どちらも好きで別れられない。そんな気持ちになることもあるだろう。結婚相手はひとりでも、「好きになった人」が複数いたら、どうすればいいのだろうか。現実的には「結婚相手ひとりしか愛してはいけない」のだが、果たしてそんな約束は守りきれるものなのだろうか。守れないから、人は不倫に走る。離婚して不倫相手と一緒になるか、不倫相手と別れて妻に戻るか。本当にその二択しかないのだろうか。

ぶっ飛んだ母親

 清水恭正さん(51歳・仮名=以下同)は、ずっと悩んでいる。結婚しているのだから当然、妻がいる。妻とは「いい関係」だと思っていた。だが妻以外に、20年近くつきあっている女性もいる。

「彼女はもちろん、妻の存在を知っています。でも妻は彼女の存在を知らなかった。だからうまくやってきたんですが……」

 両親は、恭正さんが生まれてすぐに離婚している。彼は母親に引き取られ、とある地方の母の実家で大きくなった。

「母が一生懸命育ててくれた……という話の流れが一般的ですよね。もちろん、僕の母もがんばって育ててはくれたんでしょうけど、けっこうぶっ飛んだ母親だったんです」

 祖父はそこそこ大きな会社を経営していた。母は実家に戻ると、頭を下げて入社、そこからめきめき頭角を現して、自分の父親である祖父の右腕となった。母が経営に加わると業績が数年間で倍近く上がったというのが会社の伝説になっている。

「性格はよくいえばおおらか、悪く言えば大雑把。ただ、物怖じしない大胆さがあり、ユニークなアイデアがいくらでもわいて出てくるタイプだったようです。周りにも恵まれたんでしょうね。祖父が昔ながらの義理人情の人だから、たとえば社員が病気で亡くなったりするとその奥さんを入社させて、生活に困らないようにめんどうを見てた。まだ保育園が整備されていなかった時代だから、子連れで会社に来ている女性もいましたね。それで社内保育所を作ったりもしていたようです」

「好きなように生きること」「我慢なんかするな」

 母も恭正さんを会社に連れていって仕事をしていたようだ。しかも自宅は祖父母や叔父伯母一家などがいる大家族。合宿所で育ったようなものですと彼は笑った。

「そんな中でケンカがあったりもしたけど、母が常に僕に言っていたのは『好きなように生きること』『我慢なんかするな』ということ。そのおかげで僕は高校を停学になったり退学になったりと忙しかった。自分を貫こうとすると、どうしたって誰かと衝突することになる。結局、当時の大検に合格して、東京の大学に入学しました」

 初めてのひとり暮らしだった。ひとりがこんなに静かで、こんなに寂しいものだとは思わなかったそうだ。プライバシーなどないような家で、「ねえ」と言えば3、4人が「なに」と言う家だったから、話しかける存在がないことに改めて驚いたほどだった。

「寂しかったですねえ、本当に。何度も実家に帰ろうと思った。でもおめおめと帰ったら、あの母親に爆笑される。目に見えるようでした。だからここは踏ん張らなければと思っていました」

 半年ほどでひとり暮らしにも慣れた。実家でも自分のことは自分でやっていたので家事はできる。料理も苦にならないから、だんだんひとりの生活を楽しめるようになっていった。それになにより自由な学び舎である大学は、彼の心を解放した。

「高校みたいな校則がないから、自由っていいなあと思いました。友だちもできたし、アルバイトをしながら夜遊びもした。でも一応、ちゃんと講義も受けていましたよ。大学生活を満喫しました」

 だが就活時期になると、友人たちが一変した。みんなスーツに身を包んで企業周りを始める。恭正さんは、とても自分の将来を考えることができなかった。まだ何者でもない自分を楽しんでいたかったのかもしれない。

「僕は実家の会社を継ぐ気なんてなかったし、周りもそんな期待はもっていなかったと思う。母親なんかどうするのとも聞いてこない。来る者拒まず去る者追わずという家風なんですよね。僕が入社させてくれと言えばさせてくれたかもしれないけど」

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