バウアーがDeNAに復帰!「一旦帰国→再入団」の“歴代助っ人”は活躍できる? 過去には母国でレストラン開業後に復帰した“悪魔的”人気選手も
元サイヤング賞右腕、トレバー・バウアーが2年ぶりにDeNAに復帰した。NPBでは、今季中日から巨人に移籍したライデル・マルティネスのように国内他球団でプレーを続ける助っ人も少なくないが、バウアーのようにいったん帰国後、ブランクを経て、再び同じ球団に戻ってきた助っ人も何人か存在する。【久保田龍雄/ライター】
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母国でレストランを開業後に、日本球界に復帰
その元祖的存在が、阪急のダリル・スペンサーである。
1964年に来日したスペンサーは、翌65年に打率.311、38本塁打、77打点を記録して、野村克也(南海)と三冠王を争うなど、万年Bクラスだった阪急を常勝軍団に変える功労者になった。
だが、68年に打率.231、18本塁打と力の衰えが顕著になると、同年限りで退団帰国。故郷・カンザス州でレストランを開業した。
その後、株で大失敗すると、「やっぱり野球選手はユニホームを着ているのがベスト」と“就活”を始め、日本球界にも売り込んだところ、1971年に守備コーチとして古巣・阪急への復帰が決まる。
67年からリーグ3連覇を達成した阪急は、“殺人タックル”など暴れん坊として悪役的人気のあったスペンサーの退団後、年々客足が落ち込んでいた。そこで、球団側はスペンサーをコーチ兼任の形で現役復帰させ、集客アップを図った。
すでに40歳を過ぎ、体重も100キロに達していたスペンサーだったが、71年に6本塁打、72年に4本塁打を記録。71年8月10日の近鉄戦では、判定トラブルで球審に暴行して退場となり、かつての暴れん坊を思い起こさせたが、ファンからは「同じトラブルを起こしても、随分優しい態度になっているな」の声も出た。
妻の希望を受け入れ、引退するつもりだったが…
西武黄金期の強打者として活躍後、1995年、メジャーを経て、3年ぶりに西武に復帰したのが、“カリブの怪人”オレステス・デストラーデである。
89年に来日したデストラーデは、秋山幸二、清原和博と強力クリーンアップを組み、92年には41本塁打で3年連続本塁打王を達成、チームの3年連続日本一に貢献した。
本人は、このまま西武でプレーを続けることに何の不満もなかったが、同年オフ、メジャーの新球団・マーリンズから誘われると、地元・マイアミでプレーしたい気持ちが強まり、2年契約を結んだ。
だが、1年目は20本塁打を記録も、2年目の94年に打撃不振に陥ると、5月に早々と解雇されてしまう。夫人の希望を受け入れ、引退するつもりだったが、同年10月の再来日がきっかけで、「もう一度西武のユニホームを着たい」と心変わり。夫人に「1年プレーしたら米国に戻る」と約束し、翌95年、西武に復帰した。
しかし、膝と背中の故障を抱え、マーリンズ退団後、半年以上のブランクがあったことなどから、かつてのような活躍はできなかった。加えて、4月下旬に夫人が離婚を前提に2人の子供を連れて帰国して以来、モチベーションも保てなくなった。
家族第一に考え、帰国を決意したデストラーデは「引退する前に一度でいいから、公式戦のマウンドで投げてみたい」の夢を実現するため、5月9日のオリックス戦で、東尾修監督に直訴して、0対9の8回2死からリリーフとして投手デビューをはたした。そして、6月15日のオリックス戦を最後に日本から去った。
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