“最強の王者”が人知れずこの世を去っていた… 「藤井則和」が日本卓球界の表舞台から姿を消した理由(小林信也)

  • ブックマーク

 日本の卓球史上「最強の王者だった」ともいわれる天才選手がいた。

 藤井則和。いまその名を知る人は少ない。1925年の生まれだから、今年、生誕100年を迎える。

“超弾丸スマッシュ”。桁外れの威力を誇るスマッシュが藤井の持ち味だった。

 全日本卓球選手権の男子シングルスで、藤井は46年から49年まで4連覇を飾った。

 46年は終戦の翌年。戦時下の41年から45年は大会が中止になっている。

「その時期に大会が開かれていたら連覇の記録はもっと伸びていた可能性がある」

 と語るのは卓球コラムニストの伊藤条太だ。戦時中、藤井はまだ10代。伊藤が言う。

「藤井は3歳の頃から卓球を始めています。お母さんが京都大学の中で食堂をやっていた。そこに京大卓球部の練習場もあったため、幼い藤井は大学生と一緒に卓球をしていたのです」

 ここ数年、世界の頂点で活躍する日本の卓球選手は男女ともみな幼少時から熱心に練習を重ねた選手。藤井はその先駆け的存在だ。

 京都三商4年の時(現在の高1)、15歳の10月、藤井は最初の伝説を作る。読売新聞が書いている。

〈神宮大会男子シングルス三回戦で当時不世出の天才といわれた今(孝)選手と対戦、大激戦のすえ京三商四年生の藤井は日本最高の今選手を降し「猛速球藤井」の名はパッと全国になりひゞいた〉

 5連覇を逃した50年の大会も試合に負けたわけではない。関西学院大の学生だった藤井は渡米選手歓送大会出場のため、卒業試験を受けられなかった。後日、友人が代わって受けたことが発覚。“替え玉事件”は社会的な問題となり、日本卓球協会から1年間の出場停止処分を受けた。そのため、記録が途切れたのだ。

 復帰を許された51年にはすぐ5度目の優勝。国内では無敵の強さを改めて証明した。

次ページ:スポンジラバー

前へ 1 2 3 次へ

[1/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。