62年前に起きた「吉展ちゃん誘拐事件」…完全黙秘の容疑者に「昭和の名刑事」が突きつけた“アリバイの嘘”
昭和38年3月31日に起きた“戦後最大の誘拐事件”である「吉展ちゃん事件」は同4月7日未明、身代金を奪われて犯人からの動きは止まってしまう。何よりも重要な、吉展ちゃんの安否が分からない。警視庁は、脅迫電話を録音した音声をマスコミを通じて広く公開することになった。そして浮かんできたのが30歳の時計職人だった――全国を震撼させただけでなく、その後の誘拐事件捜査に大きな爪痕を残した事件を再検証する(全2回の第2回)。
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迷走する捜査
「現場付近に土地鑑がある」
「(昭和38年)4月8日以降に借金の返済その他で、現金を20万円くらい支出している」
声の公開後、身内や関係者から「似ている」と名指しされた小原保の身辺捜査を警視庁捜査第一課が内々に進めていた矢先の5月21日、以前に勤務していた時計店での業務上横領事件が発覚し、小原は上野警察署に逮捕された。そこで、吉展ちゃん事件の重要参考人として事情を聴いたところ、
「子ども(吉展ちゃん)が誘拐されたころは郷里の福島県におり、東京に戻ったのは4月3日。(20万円の原資は)飲食店を経営している情婦のタンス預金だ」
と主張した。福島県警へ問い合わせると、日付は特定できないものの、小原が帰郷していた事実は確認できた。だが、情婦への捜査では最初は小原と口裏を合わせていたものの、やがて「その金は4月7日に小原から預かった」と供述を変えた。その点を追及すると小原は、
「密輸時計の取り引きで得た不正な金であり、入手先は言えない」
と言ったきり、それ以上の供述を拒んだ。その後(1)小原は極度に足が不自由である(2)綿密な地取り捜査でも、足の不自由な人物の目撃情報がない(3)取り調べた捜査員から、声のなまりが違うという意見が多い――などの理由もあり、小原への捜査は打ち切られる。
だが、警視庁捜査第一課の捜査は続けられた。吉展ちゃんの最後の足取りや目撃情報が自宅近くの公園から外に出てこない事から、車で連れ去られたことを考え、事件当日に現場付近で登録のある自動車所有者、タクシー業者などへの捜査を推進する。そして前科前歴者関係では、
「昭和26年ころから、全国の刑務所を出所した者のうち、罪種が詐欺か恐喝で、東北・北関東方面の出生者および両方面に本籍のある者。福島、栃木、茨城の各県で詐欺、恐喝事件で検挙した者のうち、東京に土地鑑のある者。全国で昭和28年以降、誘拐事件で検挙した者」(『吉展ちゃん事件』警視庁捜査第一課員の手記より)
そして警視庁管内における同一手口の未遂事件も検討に加えられ、広範囲な捜査を展開したが、容疑者は浮かんでこない。この間、応援派遣されていた第二機動捜査隊の警部が過労から殉職するという悲劇もあった。
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