ピストルはどこから…「規格外だった」アリ軍団 「もう脅迫です」アントニオ猪木の弟が明かす“伝説の一戦”

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京王プラザに泊めました

――1976年には、ボクシングの世界ヘビー級王者モハメド・アリと異種格闘技戦が行われました。

 アリ戦も営業をやっていましたが、とにかくお金の話ばかりでした。最前列のロイヤルリングサイドは30万円。これは関係者向けの席です。一般向けの特別リングサイドが10万円。高い席から売れていきました。ただ、上の方の席はなかなか売れなかったですね。アリに払うギャラがすごかったことが、本当に大変でした。

――アリには何人くらいの関係者がついてきたんですか。

 数十人ですよ。彼らの滞在費用をほとんどうちが負担しました。

――宿泊費もですか。

 はい。数十人を(東京・新宿の)京王プラザに泊めました。3、4泊はしていましたね。

――護衛の人がピストルを持っていたという話がありますが。

 どういう風にして入手したかは分かりません。ただ、アリの護衛の人間はピストルを持っていました。

――日本国内に持ち込めるんですか。

 普通は持ち込めませんよね。だから、こっちで調達したのかもしれません。アリ軍団は本当に規格外でした。

――数十人分の飛行機代や宿泊代を負担するのは相当な額だったのでは。

 ものすごい金額でした。新日本プロレスにとっては大赤字でしたね。でも、それが世界に向けた広告代のようなものでもありました。アントニオ猪木は、それ以降、どこに行っても「アリと戦った男」として特別扱いされましたから。そういう意味では良かったのかもしれません。

――アリ個人について、お兄さんは何か言っていましたか。

 やっぱりすごい選手だと言っていました。

――ルールについて、何かいうことはできなかったのですか。

 文句は言えませんでしたね。ものすごい大金がかかっていましたし、ルールを飲まなければ「すぐ帰るぞ」と言われていました。もう脅迫ですよ。だから仕方なく受け入れました。立って蹴ってはいけない、寝た状態でしか蹴れない、というルールも向こうが決めたものでした。

――試合前にルールの説明はなかったんですか。

 ほとんどありませんでした。だから、試合が始まってから違和感を抱いた人も多かったと思います。でも、近年になってあの試合は再評価されて、真剣勝負だったと言われるようになりました。

 ***

 第1回【「書いてあることはすべて事実」 アントニオ猪木の弟が覚悟の執筆 波乱万丈の闘魂人生】では、弟・啓介氏がアントニオ猪木の素顔について語っている。

猪木啓介氏
1948年、横浜市出身。猪木家11人きょうだいの末弟。1957年、一家でブラジルに移住。1971年、新日本プロレスに入社し営業を担当する。アントニオ猪木の闘病生活を支え、最期を看取った。

デイリー新潮編集部

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