ピストルはどこから…「規格外だった」アリ軍団 「もう脅迫です」アントニオ猪木の弟が明かす“伝説の一戦”
新日本プロレスの営業部員
力道山のもとで修業した後、プロレスラーのアントニオ猪木は28歳の時、「新日本プロレス」を旗揚げする。当時、営業部員として東奔西走したのが、弟の猪木啓介氏(77)だ。著書『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)の中でも詳しく触れているが、改めて、当時の様子を振り返ってもらった。(全6回の第3回)
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――新日本プロレスの旗揚げ時は苦労しましたか。
当時の新日本プロレスは、外国人選手も無名の選手ばかりだったし、日本人選手も6、7人しかいませんでした。そこからのスタートは本当に大変でしたね。僕の親戚が茨城の下館市(現・筑西市)にたまたまいたので、最初の興行は下館の青果市場でやりました。実際には僕がチケットを売るというよりも、親戚が全部売ってくれたんですけどね(笑)。
――最初のお客さんはどういう方々だったんですか。
おじさんばかりですよ。女性なんてほとんどいないし、子供もいなかった。でも、そのうちに子供が入ってきたんです。子供の目っていうのはいちばん怖い。プロレスを見ていても、子供はすぐわかるんですよ。「なんだよ、効いてないじゃん」とか。だから、試合内容が良くなかった時は兄貴に報告していました。「こんな試合していたら、次はチケットが売れないよ」と。
――子供にも人気が出て、団体も次第に大きくなっていった感じですか。
そうですね。その頃は営業とレスラーが一丸となっていました。「こういう試合はまずいよ」「この試合はあんまり良くなかった」とか、そういう営業の意見も聞いてくれたんです。
それに、うちは他の団体とは違う、「真のプロレスをやっている」という宣伝をしていました。チケットも、商店街で1枚1枚手売りしていました。そういうやり方でやっていたので、変なトラブルもなかったし、営業としてもやりやすかったです。そのうちテレビでの放送が決まり、女性ファンが増えて、一気に人気が出てきましたね。
――「これは来たな」と思った瞬間は、いつですか。
1974年3月に行われた「猪木VSストロング小林戦」ですね。この試合から、新日本プロレスの興行が軌道に乗った気がします。それまではせいぜい数百万円からどんなに頑張っても1000万円、2000万円だった売上が一気に1億円の大台に乗りました。
当時、一番安いチケットが1000円。リングサイドは6000円か7000円でした。しかも今みたいに電子チケットじゃなくて、税務署に持って行って、1枚1枚検印してもらうやり方でしたね。
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