「私を父親と思えばいい」…元付き人・小松政夫さんが見た大スター「植木等さん」の“無責任男”ではない素顔

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高度成長期の熱気を作った大スター

 2007年3月27日、元クレージーキャッツの植木等さんが肺気腫による呼吸不全でこの世を去った。享年80。愛知県名古屋市に生まれ、父は僧侶。自身も修行のため東京で寺の小僧となったが、大学在学中から音楽の世界に入った。1959(昭和34)年頃からクレージーキャッツのメンバーとして本格的に活動を始め、高度成長期の熱気とともにたちまちスターの座を獲得した。

 その全盛期だった1964(昭和39)年から3年10カ月、付き人として仕えていたのは俳優の小松政夫氏(2020年12月7日死去、享年78)。小松氏が花形セールスマンの職を捨て、植木氏の「カバン持ち」として芸能界に飛び込んだ話は有名だ。そんな小松氏を心酔させた植木氏の人柄とは。生前の小松氏が語った“昭和の無責任男”の知られざるエピソードをお届けする。

(全2回の第1回:「週刊新潮」2007年4月12日号「元付き人『小松政夫』が語る植木等秘話『さらば無責任男』」をもとに再構成しました。文中の日付等は掲載当時のままです)

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私のために待っててくれた

 前日までね、私は名古屋で1カ月間の公演があったんです。その前から、オヤジの容態がよくないとは聞いてましてね。もうダメかもしんない、明日かもしんないって。公演中も、気が気じゃなかったんです。

 それでようやく千秋楽迎えられて、ああよかった、間に合ったって思いましてね。夜中に東京に帰って、翌朝、見舞いに行くのに着替えようとしてたら、電話がきたんです。危ないって。慌てて駆けつけたけど、ダメでした。5分くらいですかね、間に合わなかったんです。

 でもね、まだ身体は温かかった。ああ、オヤジ、私のために待っててくれたんだなって、ま、勝手に解釈してるんですけどね。実際、翌日から2日間、仕事入れてなかったですから。おかげで最後に3日間、オヤジの側につきっきりでいられましたから。

私を父親と思えばいい

〈高校卒業後、俳優を目指して福岡から上京した小松氏。いくつかの職を経て自動車のトップセールスマンとして活躍するが、植木氏の「付き人兼運転手募集」という雑誌広告に応募。600人以上の中から選ばれた。〉

 私が付き人になった時、オヤジは五反田の病院に入ってました。まさに絶頂期でしたから、働きすぎの肝機能障害ですよ。そこで挨拶したのが最初です。ですから、それからしばらくは来る日も来る日も、自宅から肝臓にいいシジミの味噌汁もってきてね。

 オヤジも、「せっかく希望もってきただろうに、こんなことばっかりで君も不安だろうな」なんて気遣ってくれました。何しろ、初対面の時には、私が父親を亡くしてることを知って、「私を父親と思えばいい」って言ってくれた人です。もうその時から、私は一生この人に仕えようって思いましたね。

 植木という人は、私のような付き人にも汚い言葉はまったく使わない人でした。「お前」って言われるようになったのも随分あとです。それどころか、怒鳴られたことすら一度もないですよ。

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