ヤクルトのリーグ優勝を支えた左腕「久古健太郎」が語るセカンドキャリア 「逆算しながら考えると、今やるべきことが見えてきます」
シーズン開幕を2週間後に控えたプロ野球では、各球団の選手たちが長丁場を戦い抜くための最終調整を続けている。近年は成績以外にもさまざまな指標がデータ化されるようになり、緻密な戦略やデータ分析は勝利に欠かせないものになりつつある。
かつて東京ヤクルトスワローズに在籍した久古健太郎氏は、2018年に32歳で現役を退いた後に大手コンサルティング企業のデロイトトーマツコンサルティングに就職。昨年1月からは、プロ野球のデータ分析システムなどを提供するテック企業のライブリッツ(株)に在籍し、プロジェクトチームのリーダーとして、システムの運営やアマチュア選手向けの「デジタル野球教室」の開催に力を注いでいる。
引退後の異例の転身や、セカンドキャリアでの活躍も印象的な久古氏だが、これまでの野球人生にはさまざまな紆余曲折があった――。(全2回のうち第2回)
【写真】久古健太郎氏が開催に力を注いでいる「デジタル野球教室」の様子
入社後2週間での廃部通告に「野球を辞めることも考えた」
青山学院大学を卒業した久古氏は2009年4月に日産自動車硬式野球部に入部し、社会人としてのキャリアを歩み始めたが……。そのわずか2週間後に年内限りでの廃部を言い渡されることになった。
「入社して間もない時期に、翌年は何をしているかわからない状況に直面することになりまして、正直不安はありました。監督との個人面談では『翌年以降もどこかで野球を続けたい』と訴えましたけど、不運なことに当時は野球人生で最も調子が悪い時期で、試合に出てもまったくストライクが入らないような状態でした。ですから、チームメイトが続々と移籍先を決めていく中、僕一人だけ進路が決まらない状況が続いていて、一時は本気で野球を諦めることも考えていたんです」
なかなか移籍先が決まらず、落ち着かない日々を過ごしていた久古氏に手を差し伸べたのが、同時期にチームの本格的な強化を進めていた日本製紙石巻だった。
「ようやく声をかけていただいたものの、当時の日本製紙石巻は都市対抗野球に出場した経験もなかったので、チームのことはほとんど何も知りませんでした。最初は行くかどうか少し迷ったんですけど、せっかくいただいたチャンスに応えたいという気持ちが徐々に強くなり、チームにお世話になることを決めました」
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