「僕はいちいち明日、何をしようかとは考えない」 横尾忠則の“ほっとく”生き方のススメ
僕は一日中、何をしていてもボヤーッと空虚な中で絵のことを考えているみたいです。「みたいです」とまるでひとごとのようですが、絵のアイデアを考えているわけではないのです。何を描こうか? というようなものでもなく、絵のことを考えるというよりは想っているといった方が当たっているように思います。
考えるとそこに言葉がついて廻りますが、想いの場合は言葉というより愛に近いのです。だから絵のことを考えているというのは絵と恋愛しているといった方が正確かも知れません。
キャンバスの前に座った時、なんとなく浮かぶのは、この前描いた絵のことです。その絵の続きというか、延長というか、その絵から触発された何かが、絵になるのです。
時には前に描いた絵と同じような絵を描くこともあります。少し変形してみたり、色を変えてみたりして、前の絵を反復するのです。よく画家が同じような絵を何枚も描くことがありますが、あれに似たような行為といってもいいかなと思います。
でも時には、前の絵と全く逆のことをする場合もあります。これだって前の絵があることによる反作用かも知れません。今日の一日は、昨日の一日の延長ですから、昨日がなければ今日がない、ということと同じです。
そう考えると絵は生活そのもののように思います。明日、何をしようか、なんて考える必要はないのです。今日生きた結果によって明日が自然に決まるのです。人は画家のように毎日絵を描いているようなものです。
ですから、画家は、というか僕はいちいち明日、何をしようかとは考えません。よく妻が今日の夕食を食べたあと、僕に「明日何を食べたい?」と聞きますが、今日の夕食がまだ胃から流れてないのに、「明日」と言われても何も浮かびません。明日の夕食の前になってから、今日の夕食の延長で、何がいいかを考えればいいのです。というか、明日になると自然に夕食のメニューが浮かんでくるのです。今週いっぱいのメニューを全部考えておかないと心配な人がもしいるとすれば、それは美術の世界におけるコンセプチュアルアートのようなものです。
コンセプチュアルアートは、咄嗟に浮かぶというより、前もって計画を立てて、それに従って考え通りに進める手法です。大谷翔平選手は17歳の時に70代までの人生設計の計画を立てていましたが、彼はコンセプチュアルな人なのかも知れません。僕のように衝動で行動するのではなく、前もって立てた計画に従って行動するタイプです。どちらかというと頭脳派です。僕の妻もややコンセプチュアルなところがあります。僕からみると用心深い人です。それに対して僕は目の前にあるものにすぐ飛びつく衝動派です。
これが夫婦共々、同じ性格であると常に意見の対立が起こります。だから夫婦の性格は逆の方がいいのです。離婚する夫婦は両者がどこか同じ性格ではないでしょうか。同じ性格だから好みが合う時はいいでしょうが、同じ性格がぶつかると中々修正ができません。
僕の性格はどちらかというとラテン系で、結果も目的も計画も大義名分もそんなもんはありません。だから一元的というより多元的です。知的分別で白黒、正邪などつけません。無分別で何んでもありです。絵だって決まった主題も様式もなく、しばらく続けたかと思うと、それをぶち壊してしまいます。創造即破壊の性格です。だから今の職業がピッタリなんです。
スポーツでいえばチームプレイはできません。ひとりでやるスポーツ、例えば水泳とかなら良いです。でもこれがメドレーになると、チームの和を壊してしまうでしょうね。
僕がかつてグラフィックデザイナーだった時は周りにアートディレクターや、コピーライター、写真家、それにクライアントもいました。その後画家に転向しますが、画家は誰とも共作(コラボレーション)しません。天上天下唯我独尊です。僕はグラフィックデザイナーから画家に衝動的に転換しました。僕の魂が自己の魂を救済したいために、僕を自由気儘に出来る画家に転向させたのかも知れません。人生は、ほっとけば、その人が必要とする生き方の路線を敷いてくれるんじゃないでしょうか。あれこれ手をつけないで、ほっとけばですよ。
ほっとくということは努力を放棄することでもあります。努力を持ち込むと、同時に意欲や野心も一緒についてきます。そうすると自我意識が目覚めて、欲望や執着に振り回されないとも限りません。この欲望、執着は物を創る人間にとっては敵です。人間主義的人間になって、煩悩に振り廻されかねません。すると物を創る人間は純粋精神を失ないます。物を創る人間には常にこのような落とし穴が口を開いて待っているのです。創造者はいつも細い塀の上を歩いているのです。仏画に二河白道図(にがびゃくどうず)というのがあります。アレです。ネットで「二河白道」を検索してみて下さい。