「オウム真理教」最大拠点を捜査員2500人が一斉捜索…警視庁が「オウム捜査」に乗り出す転機となった許されざる“拉致事件”とは

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 警視庁がオウム真理教に対する強制捜査に着手してから、3月22日で30年。その2日前の1995年3月20日には「地下鉄サリン事件」が起きている。死者14人、負傷者6000人超――前年6月の「松本サリン事件」(死者8人、負傷者約600人)と共に、オウムによる化学兵器を用いた無差別殺傷テロの衝撃は、海外にも広く知れ渡った。一連のオウム事件では192人が起訴され、教祖の麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚を含む13人の死刑が確定、2018年7月に執行された。平成の日本列島を揺るがせた大捜査の舞台裏には、大きな転機となる事件があったという。(全2回の第1回)

史上最大の捜索

 1995年3月22日、午前1時30分――。

 山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)にあるオウム真理教の施設の周囲を、警視庁機動隊のバスが巡回した。5時30分、東京・霞が関の警視庁本部17階に、警備連絡室が設置された。そして、6時――東京・世田谷区の教団世田谷道場に捜査員と機動隊員が集結し、インタホンを押した。

「警察だ! 扉を開けなさい!」

 同じころ、中野区にある教団付属医院、江東区にある新東京総本部にも捜査員がなだれ込む。そして6時45分。静岡県富士宮市にある教団富士山総本部の前に警視庁と静岡県警の捜査員400名が集結した。抵抗する信者を排除し、7時に捜索を開始。その約20分後、上九一色村の各施設に、迷彩服に防毒マスクを装着した捜査員、機動隊員ら1000人が捜索のために突入を始めた。

 7時35分、高輪の議員宿舎を出た五十嵐広三官房長官(当時)は、報道陣にこう語っている。

「(捜索個所は)25か所。(動員された警察官)2500人。(容疑は)拉致事件として。今、言えるのはそれくらい」

 五十嵐長官の言った拉致事件とは、目黒公証役場事務長・仮谷清志さん(当時68)拉致事件のことだった。

 事件から30年を機に、オウム信者に拉致・殺害された仮谷さんの長男、実さん(65)が報道各社の取材に応じている。

 仮谷さんは1995年2月28日の夕方、帰宅途中の東京都品川区内の路上で教団幹部らに拉致された。そのまま車で上九一色村の教団施設に監禁され、麻酔薬を大量に投与され、翌3月1日、副作用による心不全で亡くなった。遺体は焼かれ、遺灰は本栖湖に捨てられた。実さんの手元にある父の骨つぼには、遺骨の代わりに収めた小石が入っている。

「仮谷さんの妹は、93年からヨガ道場に通っていたのですが、この道場はオウムの施設でした。お布施をせがまれ、1000万円を出すと、さらにお布施を迫られた。オウムが自分の全財産を狙っていると気づいた妹さんは仮谷さんに相談し、身を隠したのです。そこで、妹さんの担当だった男女2名の信者が、仮谷さんを執拗に訪ね、妹さんに会わせるように要求したのです」(当時の警視庁捜査員)

 仮谷さんは実さんにメモを残していた。そこには以下の内容が書いてあったという。

「私及び家族全員が何かをされることが懸念される。万一の場合、警察に届け捜してくれ」

「清志さんは自宅と公証役場との往復をつけ狙われていました。そこで、公証役場のすぐ近くにあるお店の主人にもメッセージを残していたのです」(前出・捜査員)

 そのメッセージとは、こんな内容だった。

「どうも人に跡をつけられているようで、気持ちが悪い。頼むから、私の姿を見ておいて欲しい。それでもし、私がいなくなったら、オウムの犯行だからと言って警察に捜してもらって欲しい」

 その後、店の主人はいつも仮谷さんの姿を確認していたが、2月28日の夕方4時半ごろ、仮谷さんが4~5人の若い男に捕まり、停車していたワンボックスカーに連れ込まれるのを目撃する。主人はすぐに110番通報した。

「仮谷清志さんが連れ去られました。オウムの犯行です」

 警視庁管内で、オウム真理教信者による拉致事件が発生――この事件がきっかけとなり、上九一色村にある約4万5000平方メートルの敷地に25棟の施設、およそ1000人の出家信者が生活するオウム最大の拠点に、警視庁が威信をかけた大捜査を展開することになる。

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