「闘う電通マン」から牡蠣職人へ ゆかりのない別府で見つけた「年収1000万円でも叶わない暮らし」

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消費者に牡蠣のことを知ってもらうこと

 9月末のある日――、大渡氏は朝6時に起床し、別府駅近くの自宅から車で1時間半かけて国東(くにさき)半島北東部の海岸に向かった。浅瀬に養殖場の1つがあり、イカダに付けた数十のカゴの中で、数千の牡蠣を育てている。

 牡蠣は暑さに弱く、死んでしまうと口(殻)を開く。ウエットスーツを着こみシュノーケルをつけた大渡氏が死んだ牡蠣を取り除く作業を行った。この日は、連日の猛暑で3分の1が口を開けていた。作業を終えたのは午後3時過ぎ。海中での作業で、体は疲れ切っていた。生き残っていた牡蠣は、後日、プランクトンなど養分が豊富な沖合の養殖場へ移し、太らせたのちに出荷される。

 大渡氏がこの仕事を始めて実感したのは、消費者が牡蠣のことを知らないことだった。

 国内で流通している牡蠣はほぼ養殖である。流通量は年間15万トンで、広島県産が6割を占め、ここに宮城県産と岡山県産を合わせて8割に達する。その多くは、「垂下(すいか)式」で大量生産されたもの。ホタテの貝殻100枚程度の“連”を海中に垂らし、牡蠣の幼生がくっつくのを待ち、育てていく方法だ。

 一方、オストラは牡蠣を幼生から1つ1つ育てる「シングルシード」と呼ばれる方法で養殖している。牡蠣を独立して育てるために形が整いやすく、雑菌などのリスクも低い。オーストラリアの養殖法を参考に99年に北海道の厚岸(あっけし)町で導入されたが、これを行ったのが加藤氏だった。シングルシードはその後全国へ広がり、各地でブランド化している。

 主に加熱用に流通する垂下式の牡蠣に比べ、殻付きの生牡蠣として食されるシングルシードの牡蠣は手間もコストもかかり、価格が高い。垂下式で大量生産された牡蠣はキロ当たりの卸値が1,000円台~3,000円台。対して、シングルシードの牡蠣は、1個150円~350円と倍以上の値がつくこともある。

「オストラの牡蠣は、県内を中心に飲食店へ卸している他、国東市が運営する通販サイトや市のふるさと納税の返礼品としても扱われています。通販価格は、ほぼ卸値の12個3,900円(1個当たり325円)。スーパーには並ばない特大サイズの美味しい牡蠣の存在が、消費者に伝わっていないのです。営業マン出身の私は、シングルシードの牡蠣をもっと知ってもらうことが使命だと思うようになりました」

 別府市に移り住んだことで、仕事だけでなく日常も大きく変わった。別府駅に近い一軒家を借りているが、家賃は10万円と東京と比べて破格の安さ。ここで妻と3歳の長男、1歳の長女と暮らしている。

「東京では年収1,000万円でも、家を借りて、結婚して子供が生まれると、決して豊かな生活ではなかったと思います。別府に来て収入は減りましたが、豊かな生活ができていることを実感しています。仕事が早く終われば帰りがけに釣りをして、子供と一緒に魚を料理しています。畑を借りて、子供と一緒に野菜を作っています。何より、市民は数百円で入れる公衆温泉が近所にいくつもあり、子供を連れて行くのが癒しになっています」

 別府市で仕事を探した時、ブランド鶏である軍鶏の生産など、候補は他にもあった。第一次産業だけに限っても、地方にはまだまだ可能性があると思った。今後は、地方移住を進める仕組み作りにも挑戦したいという。

坂田拓也(さかた・たくや)
大分市出身。明大法卒。1992年「サンパウロ新聞」(サンパウロ)、97年~2004年「財界展望」編集記者、08年~18年「週刊文春」記者、現在フリー。著書『国税OBだけが知っている失敗しない相続』(文春新書)、取材・構成『日本人の給料』(宝島社新書)ほか。

デイリー新潮編集部

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