「闘う電通マン」から牡蠣職人へ ゆかりのない別府で見つけた「年収1000万円でも叶わない暮らし」
別府市を選んだ理由
退社を決めた時、先のことは具体的に考えていなかったが、定年退職後にスポーツマネジメント事業を立ち上げていた元上司が声をかけてくれた。また、プロモーションの仕事もいくつか依頼された。
「ところが商品のプロモーションを始めると、違和感を強く覚えるようになりました。今はインフルエンサーの影響力が大きく、数千万円出してテレビCMを流すより、彼らに数百万円払ってSNSで宣伝してもらったほうが売れる時代です。スポーツイベント開催という、リアルな現場で仕事をしてきた私は、SNSプロモーションに馴染むことができませんでした」
実は電通在職中から自然への憧れがあり、地方へ行くことを夢想していた。
「当時は子供が保育園に通っており、朝の送迎は私がしていたのですが、すぐ横を車がバンバン通るような環境でした。自然の中で子供を育てたいと思い始めましたが、なかなか踏み出せませんでした」
そんな背中を押したのは、退職して1年が過ぎた頃、身近な人が亡くなったことだ。
「空手でお世話になった67歳の大先輩でした。ある日の夜、久しぶりに電話がかかってきて『イベントを開くのでスポンサーを集めて欲しい』と言われ、快諾しました。その翌朝、亡くなっていたのです。人の死を強く意識させられ、子供と過ごす1日1日が大切に思えるようになり、移住を真剣に考え始めました」
まず一昨年の夏、妻子を連れて別府を訪れた。東京出身の知人女性が数年前に移住して、両親を呼び寄せたことを知り、遊びに行ったのだ。
もともと温泉が好きで、電通時代も、仕事を終えた深夜に仲間を乗せて高速を走り、草津へ行って朝まで温泉につかることもあった。温泉好きにとって「聖地」である別府市へは、20代、30代の時にも訪れていた。
別府市は人口11万人の小さな街だ。別府湾を臨み、背後はなだらかな坂に温泉が連なり、山岳へと延びている。
「海があり、山があり、温泉がある。改めて別府市の魅力を感じました。初めて訪れた妻が私以上に気に入り、移住を決めたのです」
一目惚れして牡蠣の養殖へ
先に移住地を決めて、現地でできる仕事を探すことになった。
「考えたのは“食”にかかわる仕事に就くことでした。食は生活のベースにあり、家族でも仲間でも、食卓を囲んだ時の思い出は長く残るものだからです」
電通時代の人脈を生かして様々な人に声をかけると、知人のまた知人を通して、牡蠣養殖の第一人者、加藤元一氏(64)に出会った。
加藤氏も移住者で、もとは北海道庁の職員として牡蠣養殖の研究に従事していた。04年にヤンマーが大分県国東市に「マリンファーム」を設立し牡蠣養殖事業を開始する時に道庁を退職し、初代所長として赴任した。その後、養殖事業を終了しても加藤氏は残り、(株)Ostra(オストラ)を立ち上げ養殖場を引き継いだ。
昨年1月に加藤氏を訪ねると、本社兼自宅は、目の前に別府湾が広がる青色のコンテナハウスだった。室内ではストーブにくべられた薪がパチパチと燃え、選び抜かれたオーディオ機材から音楽が流れていた。
「加藤さんは、自分が好きなことを思いっきり楽しんでいました。そして加藤さんが出してくれた殻付きの生牡蠣に、一目惚れでした」
3カ月後、大渡氏は妻子を連れて別府市に移住し、オストラの仲間入りをした。
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