「闘う電通マン」から牡蠣職人へ ゆかりのない別府で見つけた「年収1000万円でも叶わない暮らし」

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村田諒太のマネジメントと世界水泳の招致

 電通に入社して空手を10年続けたが、仕事はとにかく忙しかった。最初は営業局に配属され、ある巨大企業のプロモーションを担当する20人~30人のチームに入った。毎晩深夜まで職場に残り、金曜日には徹夜し土曜日の昼まで仕事が続くこともあった。夕方に仕事を抜けて道場へ行ってまた戻り、深夜に再び道場へ行く生活をおくった。

 選手引退後にスポーツ局に異動すると、JOC(日本オリンピック委員会)傘下のアマチュアスポーツの大会運営やプロモーションを担当した。12年のロンドン五輪・ボクシングミドル級で、村田諒太の金メダル獲得を見た時がひとつの転機になったという。

「空手で外国人と闘っていると、彼らの体の強さを実感します。その外国人を相手に、村田は日本人として初めてミドル級で金メダルを取りました。すげえと思って、すぐに村田に会いに行きました。会ってみると思慮深く、いい男でした。プロになるべきだと思いましたし、その場でマネジメントを申し出たのです。この時に、与えられたものではなく、自分で望み、自分で作り上げる仕事にやりがいを感じました」

 村田のマネジメントと並行し、世界水泳選手権大会を福岡県福岡市に招致することを考え始めた。

「何回か訪れて大好きになった街で、01年にも世界水泳が開催されており、20年後の節目に再び、という意義づけもできました。まず福岡市に招致を決めてもらうため、人づてで、市長の関係者に会いに行くことから始めました」

 招致活動は2年に及び、16年のFINA(国際水泳連盟=当時)の理事会で、ドーハ(カタール)と南京(中国)を破り、21年の開催地が福岡市に決まった。

 しかし、コロナ禍の拡大により開催が2年延期された。その間に資材の高騰、インバウンド復活による宿泊費等の上昇、追加費用の発生などがかさみ、開催費用は当初予定の2倍に膨れ上がってしまった。

「不運だったとはいえ、福岡市の負担金が増えた責任の一端は私にありました。責任を取る形で、開催を待たずに担当を外れました。その時、仕事に区切りがついたことを感じたのです。早期退職募集が行われ、割増退職金がかなり出ることも分かり、退社を決めました」

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