「闘う電通マン」から牡蠣職人へ ゆかりのない別府で見つけた「年収1000万円でも叶わない暮らし」
サラリーマンとして勤務しながら打撃系格闘技「K-1」に出場し、「闘う電通マン」と呼ばれた大渡博之氏(48)が、田舎暮らしを始めた。東京生まれ東京育ち、東京で働いてきた大渡氏が選んだのは、まったく縁のなかった大分県別府市。今はここで、牡蠣の養殖を行っている。
決断に至る経緯と現況を聞いた。
軽量級のエースとしてK-1出場へ
「試合が近づくと怖くなりますが、控室でグローブをつけると覚悟が決まります。試合が終わると解放感に溢れますが、またすぐ次に臨みたくなる。この気持ちは、出なければ体感できません。正道会館の後輩には、“とにかく試合に出てみろ”と言っていました」
大渡氏は、現役時代をそう振り返る。
K-1出場の礎となる空手との出会いは、巣鴨高校卒業後の浪人生時代と遅かった。高田馬場の予備校に通い始めた時、近くに正道会館の東京本部があり、K-1のスター選手、アンディ・フグがいることを知った。翌年、早稲田大学法学部に合格すると、入学式より先に正道会館に向かった。
「正道会館はフルコンタクトの空手を実践しており、痛くて怪我が絶えませんでしたが、最初の頃は、日に日に上達していくのが実感できて楽しかった。試合に臨むようになると、痛いだけに緊張感が高まり、その分、勝った時の喜びが爆発的で“中毒”になりました。大学の4年間は空手に明け暮れましたが、何かに打ち込む価値のある時間だったと思います」
大渡氏は身長178センチと、軽量級(当時の規定では70キロ以下)としては背が高い。大学を卒業する頃には、長いリーチを生かして外から攻め、相手が内に入ってきた時に左の膝蹴りで倒す必勝スタイルを確立した。
電通に入社した2001年には、正道会館の全日本空手道選手権に出場して初優勝。以降02年、04年、05年と優勝を重ね軽量級のエースに上り詰めた。そして29歳の時、キックボクシング興行「R.I.S.E.」でプロデビューした。
08年7月に日本武道館で開催された「K-1 WORLD MAX 2008 World Championship Tournament FINAL8」は、K-1の人気絶頂期ということもあり、観客は1万1,000人を超え、フジテレビが生中継した。大渡氏は予選を勝ち上がり、第1試合に出場を果たしたのだ。大きな舞台になるほど、リングに当たるスポットライトの光がまぶしく、観客席は暗くなり見えないという。
大渡氏は格闘家のMASAKIと対戦。得意の膝蹴りが効いて、1ラウンド1分53秒でTKO勝ちした。その後、2010年に引退するまで、プロとして13戦9勝4敗(6TKO)の戦績を残した。
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