「悠仁さま」筑波大ご進学で「茨城県警」の苦悩…皇室警備の経験でおとなり「栃木県警」と“圧倒的な差”が囁かれる理由

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新たな部署の創設

 秋篠宮家の長男・悠仁さまの筑波大でのキャンパスライフが茨城県警など警察の重圧となっている。今の皇室典範に変更がない限り、若い世代で皇位継承権を持つのは悠仁さまだけだ。そこで警察庁、皇宮警察、筑波大学を管内に持つ茨城県警、宮邸を所管する警視庁がタッグを組み、“未来の天皇”が都外で過ごすという、前例のない学生生活の安全確保に向けて万全の“警衛”体制構築に苦心しているのだ。

 警察内部では身辺警備に関し、要人を「警護」、天皇・皇族は「警衛」と、区別して呼ばれる。警衛の計画は、警察庁警備局警備運用部の警備第2課警衛指導室が総括。同庁の附属機関として置かれている皇宮警察本部と、現場の都道府県警察本部がチームを組んで実施される。

 実は、2022(令和4)年の参院選中に安倍晋三元首相が銃撃・殺害された事件後、警衛警護のシステムが見直された。警察庁には警備運用部が新設されたほか、警備第1課にあった警衛室と警護室が増員の上、警備第2課として独立した。その下に改めて警衛指導室と警護指導室が置かれると同時に、全国警察でも組織改編が進められ、茨城県警では昨年3月、警備部警備課の人員を拡充し、新たに「警衛警護室」を立ち上げた。

 昨年10月27日に投開票された衆院選は、銃撃事件後初の国政選挙ということもあり、警衛警護室は候補者の応援で茨城に駆けつけた政党幹部らの警護に厳戒態勢で当たった。同23日にJR水戸駅前で行われ、約1200人の聴衆が集まった自民党総裁・石破茂首相の街頭演説では、選挙カーの屋根上の演台に、背後を守るための防弾資機材を設置。聴衆が演台に近づき過ぎないよう、数メートルにわたって立ち入りを制限していた。

 また同年7月に、トランプ米大統領が大統領選の演説中に銃撃された事件の影響もあり、付近のビルの屋上にも警察官を配置する念の入れ様だった。こうして何事もなく選挙戦が終わり、ほっとしていたところに降って湧いたようにもたらされたのが、悠仁さまの筑波大合格の知らせだった。県警関係者は、こう回想する。

「噂はあったが、ネット情報では『東大に行かれるんじゃないか』といった話もあり、筑波大に決まったと聞いた時はさすがに『これは大変なことになる』と、気が引き締まった」

 警察庁幹部が補足するには、

「茨城県警はかなりプレッシャーを感じているようです。その背景には、警衛など皇室関連の警備についての経験が絶対的に不足しているという事実があるのでしょう」

栃木県警との差異は

 同じ北関東の警察で比較してみよう。

 観光や住みたい街の全国ランキングで、何かとライバル視される隣の栃木県には那須御用邸があり、毎年、天皇皇后両陛下をはじめ皇族方が静養に訪れられる。また日光と奥日光は上皇陛下が戦中に疎開(避難)した先だったため、上皇上皇后両陛下が戦争の記憶を後世に残していこうと何度も足を運ばれてきた歴史もある。警察庁幹部は、こう指摘する。

「だから栃木県警は経験値が高いわけです。しかも御用邸があるために(皇宮警察の)皇宮護衛官が常駐していて、普段から意思の疎通も連携も取れているというアドバンテージがあるのです」

 他方で茨城県には、これといった皇室関連施設もゆかりの地もない。平成26年から昨年までの10年間を振り返っても、天皇ご一家の茨城ご訪問は1回のみで、上皇ご夫妻もわずか3回。結婚前の小室眞子さんもカウントした上でお忍びを含めたとしても、秋篠宮ご一家でさえ10回程度だ。

 このため警察庁は、茨城県警と皇宮警察の連携を全面支援するため、秋篠宮邸を管轄し、お茶の水女子大付属幼稚園から筑波大付属高校まで悠仁さまのご通学を支えた警視庁にバックアップを指示した。警視庁は悠仁さまの警衛ノウハウについてのエキスパートである上、全国で唯一、警衛専門の部署として警備部に「警衛課」を抱える警衛分野全般のスペシャリスト集団だからだ。

 前出の幹部は、こう話す。

「警視総監には1月、迫田裕治前警備局長を充てる人事が断行されました。もちろん宮内庁長官は西村泰彦元警視総監です。皇警の直江利克本部長は茨城県警での勤務歴がある上に、宮内庁の総務課長や警視庁の交通部長を歴任しています。警察で警備というと警備部だけの専権事項と考える人が多いと思いますが、現場の実働部隊はむしろ交通部と地域部の警察官がメインです。その交通部トップも経験しているわけですから、警視庁、県警、そして自らが手綱(たづな)を握る皇警のトライアングルには期待していいのではないでしょうか」

 そもそも皇室の身辺警備はなぜ、複数の警察組織がばらばらに受け持っているのだろうか。現在の皇室制度は明治維新後に再編されたもので、警衛の担い手は1871(明治4)年に設置された御親兵に始まる。翌年3月に近衛兵へと改称。太平洋戦争中に編制変更が行われ、旧帝国陸軍の近衛第1師団、第2師団、第3師団が置かれたが、他の一般師団とは異なって特定地域から徴兵されるのではなく、全国から兵士が選抜されていた。

 全軍トップの大元帥、つまり天皇の最有力候補である皇太子は「近衛歩兵第1連隊附」という連隊長代理に就任するのが通例で、大正天皇も昭和天皇も皇太子時代は「近歩1附」と呼ばれた。世が世なら、事実上の皇太子に当たる皇嗣の秋篠宮さまも近歩1附としてご長男を守る組織を率いていた可能性があった。

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