「私は人殺しですか」…サリン製造「土谷正実」元死刑囚 獄中で妻に問いかけた言葉の意味【地下鉄サリン事件30年】
“私は人殺しですか”
そんな土谷だが、事件に対してはどんな思いを抱いていたのか。
「私との間で話をすることはありませんでしたが……」
と夫人が続ける。
「本人の答えは再審請求をしないことだったんだと思います。請求は他の人もしていることですし、多分通らないでしょうが、チャンスはゼロではない。私としては一日でも長く生きていてほしかったから何度も勧めました。しかし“しない”と言う夫に迷いはなかった。その意味では、自分が犯した罪の大きさを、実感しないまでも、重く認識してはいたんでしょう。“死刑になることは怖くない”“死んで償うしかない”“生きることに意味はない”と常々言っていましたから」
土谷は、拘置所では懲罰の常連だったという。
「気難しい人でしたから、職員に手をかけられたくらいでも“触るな”とはねのけたり、スリッパで頭を引っ叩いたりして保護房に入れられていた。このままここで生き続けるよりは……という思いはあったようです。最後の5年ほどは私しか交流者はいませんでしたから、私に手紙を書くか、化学の本を読むくらいしか辛い拘置所生活に耐える方法はなかった。生きていても死んでいても変わらない、と。一度、“私は人殺しですか。私を人殺しだと思いますか”と聞かれたことがあるんです。言葉に詰まりましたが、“結果的に見れば人殺しに違いないけど、私はそうは思えない”と答えた。そうしたら安心したように“もうそれだけでいいです”と言っていました」
唯一の心残りは…
その裏には「孤独」があったのかもしれない。オウムの死刑囚は、井上嘉浩しかり中川智正しかり、親族と最期まで交流を持っていたケースが少なくない。しかし、土谷の場合、両親はかつて息子を教団から取り戻そうと茨城県内の寺に“監禁”を試みたことがある。あの上祐史浩が奪還に動くなどし、結局、彼は寺から脱出。親の元に帰ることはなくそのまま出家したが、
「それ以来、家族から捨てられたという思いはずっと持っていたようですね。息子がおかしな宗教に没頭していれば、連れ戻そうとするのは当然だと思うのですが……。寺のお坊さんが“出て行こうとするならこの子を殺すしかない”と言った際、お母さんは“殺すなら私が殺す”と言った。そのことをいつまでも恨んでいました。お母様にも思うところはあるようでついに一度も面会には来られませんでした。実は、私は一度、実家に伺って“本人に会ってやってください”とお願いしたことがある。わだかまりを解いて逝ってほしいと思っていたんです。でも、1時間ほど話したでしょうか、最後まで拒絶されたままでした。主人のお父様は事件後、60代の若さで亡くなり、妹さんも結婚されなかった。お母様はそれを事件のせいだと思っていて“お父さんを殺したのはあの子なんだから”“娘が結婚できないのもあの子のせい”“息子とは思っていない”と。諦めました。別の知人も何度もお母様に頼んでみたのですが、やっぱりダメでした。結局、生前も執行後も一度も連絡はないままです」
これもまた、特異な生き方であろう。
その土谷も、最期は従容として死に赴いたという。
「いきなりでビックリはしていたそうですが、事を理解すると“今日がそうなのか”と大人しく刑場に向かっていったそうです。唯一、悔やまれることがあるとすれば、あの日、東京拘置所での執行が麻原と一緒になってしまったこと。荼毘に付されたところまで一緒でした。あれだけ憎んでいた麻原と最期まで同じだったとは……。執行を受け入れていたと思いますが、それだけは心残りだったのではないでしょうか。最期は、私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」