「私は人殺しですか」…サリン製造「土谷正実」元死刑囚 獄中で妻に問いかけた言葉の意味【地下鉄サリン事件30年】

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 3月20日で、地下鉄サリン事件は発生からちょうど30年を迎えた。麻原彰晃教祖(本名・松本智津夫)率いるオウム真理教が起こした凶行は、死者14名、負傷者6000名以上を数える未曾有の大惨事となった。教団でそのサリンを中心となって製造したのが、土谷正実・元死刑囚(享年53)である。

 土谷は1965年、東京生まれ。都立狛江高校を卒業後、筑波大学農林学類、同大学院化学研究科へと進学した。大学2年生の時、オウム真理教と出会って傾倒。研究室から足が遠のくようになる。心配した両親は脱会するように説得し、茨城県内の更生施設に入れたが、土谷は脱出、出家した。

 化学の専門知識を持つ土谷は麻原から重用され、第2厚生省大臣に任命、ホーリーネームを冠した「クシティガルバ棟」なる実験施設まで与えられる。そこを拠点に製造されたサリンやVXなどの化学兵器が一連の事件に使用された。彼が教団にいなければサリン事件は起こらなかったかもしれない。

 逮捕後も土谷は麻原への帰依を貫いた。法廷では「麻原の直弟子です」と述べる一方、サリンは他の幹部から命じられるままに製造したもので、殺人に使われるとは知らなかったと無罪を主張した。一審、二審で死刑判決を下され、最高裁では麻原信仰と決別したことを主張するも、判決は覆らず極刑が確定。2018年7月6日に死刑が執行された。

「週刊新潮」ではオウム真理教13名の死刑執行から1年後の2019年7月、土谷と獄中結婚した妻にインタビューを行っている。そこでは、麻原への感情や家族との関係、最期の肉声など、土谷の知られざる姿が詳細に記されている。以下、当時の記事を再録し、オウムの凶行がなぜ起きたのか考えてみよう。
(「週刊新潮」2019年7月11日号記事の再録です)

 ***

「私の夫は、最期まで事件への実感はなかったと思います」

 そう述べるのは、土谷の妻である。

「重大なことをしたという認識はもちろんありました。ただ、それがどこまで実感を伴っていたかというと……。面会でも事件について語ったことはありませんでしたし、遺品の中に書き物はありましたが、事件のことにはまったく触れられていませんでした」

 土谷は1989年にオウムに入信した。当時、筑波大学大学院化学研究科の学生だった“エリート”である。出家後は麻原の命を受けて化学兵器の開発に次々と成功。彼がサリンを作っていなければ無差別大量殺人は不可能だったに違いない。その土谷に特異なのは、オウム死刑囚で唯一、殺人現場にも立ち会わず、その具体的な計画も知らされぬままだったことだ。ひたすら大量殺人兵器の開発に専念していた土谷に事件の実感がないというのは、あながち弁解ではないのかもしれない。

 夫人が回想する。

「主人は中学生がそのまま大人になってしまったような人でした。良い悪い、人の好き嫌いの基準がはっきりしていて、一旦ダメということになると、100からゼロにいってしまう。普通なら、社会に出てそれが修正されるものですが、学生のまま入信してしまいましたからその機会もありませんでした」

 裁判でも二審が終結するまで帰依を貫いていた。

 夫人と土谷とは、事件以前からの知人。高裁判決後、獄中の土谷から手紙が来たことをきっかけに交流が始まり、2008年に籍を入れた。

「“教祖のことをどう思うか?”と聞かれたんです。私はオウムとは何の関係もありませんから“ペテン師に違いない”とはっきり言いました。すると彼は一夜で反転。“麻原は私利私欲の塊だった”と言うようになったんです。ちょうどその頃、裁判でも麻原の自己保身の姿勢が明らかになったこともありますが……。その後は、最期まで麻原とは心が離れたままでした。法廷では厳しく批判するようになったし、面会の時も、彼のことになると珍しく感情がむき出しになる。“嘘つき”“詐欺師”“昔に戻れたらぶっ殺してやる”と口汚く罵っていました。極論を言えば、主人には誰か1人だけいればいい。信頼する人と出会うとその人がすべてになってしまう。麻原を崇めるようになったのも同じような理由だったのだと思います。それがたまたま大量殺人者だった……。本当にあってはならない組み合わせだったと思います」

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