“経営が変質”した決定的な転機は「同業との合併」だった 最終赤字1.8兆円、米産業界の盟主・ボーイングはなぜ苦境に陥ったのか?

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 2025年1月28日、米ボーイングが24年12月期の決算を公表した。最終損益は118億2900万ドルの赤字。日本円にして約1.8兆円に上る巨額の赤字を計上した。赤字額はコロナ禍のさなかの20年12月期に次いで過去2番目の大きさで、最終赤字は6期連続となった。

 なぜアメリカを代表する企業は未曽有の苦境に陥ったのか?

 24年12月に発売されたノンフィクション『ボーイング 強欲の代償 連続墜落事故の闇を追う』では、18年と19年に起きた737MAX機の連続墜落事故の背景を追い、その原因となったボーイングの経営の変質に迫っている。

 同書によれば、ボーイングの経営が変質した決定的な転機は、苦境にあえいでいた同業のマクドネル・ダグラスと1997年に合併したことだったという。その場面を描いた同書の記述を追ってみよう。

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 将来の展望を失ったマクドネル・ダグラスは1997年8月1日、163億ドルの値付けでボーイングに売られた。惨(みじ)めな救済合併のはずが、業界ではむしろ「ボロボロだった会社を、高値で売りつけるのに成功した」と受け止められた。

 この合併では、買われる企業の株主に、現金ではなく買う側の会社の株式を与える「株式交換」という手法が使われた。マクドネル・ダグラスの株主には同社株1株に対してボーイング株1.3株が割り当てられた。

 マクドネル創業者の息子で、マクドネル・ダグラス会長の座に納まっていたジョン・マクドネルと、(CEOの)ハリー・ストーンサイファーは、ともにマクドネル・ダグラスの大株主だった。株式交換によって大量のボーイング株を割り当てられた二人は、新生ボーイングにとっても、それぞれ1位と2位の個人大株主として影響力を持つようになる。

 ストーンサイファーはボーイングとの交渉で、高い買収額のほか、ジョン・マクドネルらマクドネル・ダグラス出身者の取締役ポストの確保、彼自身の処遇の保証、そして新社名を「ボーイング・マクドネル」とすることなどを要求したという。かなえられなかったのは社名だけだった。

「羊によるオオカミの買収」

 地球の周りをロケットと飛行機の翼が飛ぶイメージのマクドネル・ダグラスの企業ロゴは、新生ボーイングにも引き継がれて今に至る。ロゴが象徴するように、旧マクドネル・ダグラスの経営陣は、新生ボーイングの「母屋」を実質的に乗っ取ってゆく。

 新会社の取締役12人のうち、マクドネル・ダグラス出身者が占めたのは4席。ストーンサイファーとマクドネルのほかには、レーガン政権で大統領首席補佐官を務めた大物ロビイスト、ケネス・デュバースタインと、投資業界出身のジョン・ビッグスが名を連ねた。その人選は、シアトルに根ざしたものづくり企業の色合いがまだ濃かったボーイングが、首都ワシントンや金融業界とのかかわりを重んじていく将来を暗示していた。

 失敗企業の経営者だったはずのストーンサイファーは、合併後のボーイング社長兼最高執行責任者(COO)に納まった。会長兼CEOに昇格していたフィリップ・コンディットと二人三脚でボーイングの「改革」に乗り出す。

「会社はファミリーではない、チームだ」

 ストーンサイファーが打ち出したお触れが社内に回された。文字どおり親子2代、あるいは3代にわたるボーイング社員も大勢いるなか、職場で当然のように使われていた「ファミリー」という言葉は、しだいにタブー視されるようになる。

 合併があった1997年、ディールをまとめたストーンサイファーは、マクドネル・ダグラスとボーイングの両社から合わせて1570万ドル(約19億円)相当の現金と株式を得ていた。同じ年、彼の「上司」であるはずのコンディットが受け取った報酬は、その10分の1の150.4万ドル(約1.8億円)にとどまったという。

 ボーイングは無理な増産の結果、サプライチェーンや生産現場が混乱し、1997年にほぼ半世紀ぶりの赤字を計上していた。そこにアジア通貨危機が直撃。経営の根本的な立て直しを迫られていたタイミングでもあった。

 ウィリアム・ボーイングがレッド・バーンで創業して以来、より高品質で信頼性が高く、より速く、より快適で、より多くの人や荷物を運べる航空機をつくることに心血を注いできたボーイング。エンジニア優位で家族主義的な気風もかろうじて残していた企業文化がマクドネル・ダグラス流に染まるまで、さほど時間はかからなかった。

「羊によるオオカミの買収」

「ボーイスカウトたちが暗殺者に乗っ取られた」

「マクドネルが、ボーイングのカネでボーイングを買収した」

 ヘビが鹿を食うかのごとく「小」が「大」をのみ込んだ買収劇を、人々はさまざまに揶揄(やゆ)した。

敵視されてゆく現場、立ち上がるエンジニア

 1960年代後半、中国建国の父・毛沢東が仕掛けた政治闘争「プロレタリア文化大革命」で、毛の対抗勢力は中国革命の完成を阻む守旧派として徹底批判にさらされた。思想や文化、芸術、慣習を含むあらゆる「古い価値観」が否定の対象となった。知識人は迫害され、寺院など文化財も破壊された。ボーイングで起きた企業文化の急転換は、文革になぞらえて「シアトルの文化大革命」とも表現されるようになる。

(中略)

 労働組合がストライキを繰り返した生産現場の機械工らに対しては、合併よりもはるか前から経営側は警戒心を持っていた。しかし、業界の「ベスト&ブライテスト」として尊敬を集めていたエンジニアまで、「金食い虫」として待遇切り下げやリストラの対象となった。

 2000年2月、シアトル圏のエンジニアら約1万7000人が40日間ものストライキに突入した。ストを動員した航空宇宙専門技術者労働組合(SPEEA)は長く、経営側に親和的で「弱虫」扱いすらされていた。しかし、穏健なSPEEAですら、プライドを傷つけられる扱いに耐えかねたのだった。

「自らが得るに値すると信じている尊厳のために、ストに繰り出している。俺たちが設計しているものこそ未来のボーイングだ。目先の利益への貢献は小さくなってしまったかもしれない。でも、ボーイングが将来も生き残れるかどうかのカギを、俺たちは握っている」

 ストに加わった勤続23年の技術者ジム・マシスはロサンゼルス・タイムズにそう語った。ホワイトカラーが蜂起したストとしては、これがアメリカで史上最大規模となった。

 ストの結果、組合側は賃上げや医療保険料の会社負担など、幾ばくかの「実」を勝ち取りはした。しかし、煮え湯を飲まされたコンディットら経営陣は、シアトルの本社や工場に陣取る働き手たちへの警戒心をさらに強めたに違いない。

 シアトルを大混乱に陥れ、世界を驚愕させる「次の手」が、ひそかに練られ始めた。

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 同書には、この後、経営陣によって、従業員の尊厳を奪うような驚きの施策が次々と実行に移されていく様子が描かれている。

 一度、失われてしまった「企業文化」は、そう簡単には取り戻せない――。

 長く苦境にあえぐボーイングの姿は、会社で働く私たち一人ひとりにとっても、大きな教訓を告げている。

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