「オウム村井刺殺に動いたヤクザ」「地下鉄サリンを防げなかった悔恨」 事件発生から30年目の2つの証言
“御前会議”では
「実際に山梨や宮崎での事件を手がかりに大規模捜査が計画されたようですが、警察庁長官らも含む“御前会議”ではゴーサインが出るまでには至らなかった。また人員や態勢などで群を抜く警視庁管内で目立ったオウム関連の事案がなかったことも垣見氏らにとっては悩ましかったようです」(同)
そうこうしているうちに前述の通り読売がスクープを報じることになる。
「読売のスクープを受けてオウム側の警戒度は当然高まり、サリン製造に関する証拠の遺棄が一気に進んだようです。垣見氏らは上九一色村にあるオウム施設への強制捜査を3月22日に設定するのですが、地下鉄サリン事件がその2日前に起こってしまったのです」(同)
垣見氏は長らく沈黙を続けてきたが、少し前にNHKの取材にも応じており、証言は同書が初めてではない。ただし今回の企画は法学者の声かけで実現し、聞き取りチームには別の学者やジャーナリストらが加わっており、「証言の公平性・中立性に重きを置いた設計になっていると感じました。垣見氏の語る捜査に対する反省の言葉は傾聴に値するものでした」(同)とのことだ。
村井秀夫刺殺事件
なお垣見氏は一連の捜査に関する責任を取らされて更迭。1995年9月、警察大学校長を最後に警察庁から去る。52歳の若さだった。東大法学部在学中に司法試験に合格した後に警察庁に長年勤務しており司法修習を受けることなく弁護士資格を得ることもできたが、あえて司法修習を受けた。
「そのあたりも含めて垣見氏の人となりがわかる一冊になっていました。オウム捜査を機に垣見氏が極めて弱気になったといった話がまことしやかに流れてそれが定説となってきたのですが、そういった質問にも丁寧に答えていたのが印象的でした」(同)
オウムに関しては背景などが明確にならないままの案件も多い。その1つが幹部の村井秀夫刺殺事件だろう。
地下鉄サリン事件の翌月にあたる1995年4月、村井秀夫が5代目山口組傘下の羽根組の準構成員のA氏に刺殺された。この事件で羽根組の若頭らが殺害を教唆した容疑で逮捕される(その後に起訴されたが、無罪判決が下る)などし、その責任から羽根悪美組長は引退を宣言し、解散届を提出した。
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