「世界王者になれたはずの男」は黒人差別に蹂躙された… 冤罪で19年服役したボクサー「ルービン・カーター」の生涯(小林信也)
1960年代に活躍した天才ボクサー、ルービン・カーターは、強打と連打のすさまじさから「ハリケーン」の異名を取った。
彼の生涯は、黒人であったがため、筆舌に尽くし難い闇に包まれ続けた。アメリカにはそんな暗黒の時代があった……。
64年12月、ハリケーンはWBC、WBA世界ミドル級王座に挑戦した。チャンピオンは両タイトルを持つ白人ジョーイ・ジャーデロ。15ラウンド戦って、勝負は判定に持ち込まれた。実況席も詰めかけたファンもハリケーンの勝利を疑わなかった、と伝説は言う。
ところが、スコア集計に35分もかかった挙句、レフェリーは王者の防衛を告げた。ハリケーンが腰に巻くはずのチャンピオン・ベルトは、白人至上主義の謀略で消されてしまったと多くの目撃者は憤った。そして再び王座に挑戦する機会がないまま、もっと深刻なわなにはめられ、ハリケーンはリングに上がる自由を奪われた。
66年6月17日深夜、ニュージャージー州のバーで白人3人が銃殺される事件が起きた。「現場から白い車で逃げ去った黒人2人組」という目撃証言と一致したハリケーンが誤認逮捕され、次々にうその証言をでっち上げられ「獄中死するまでの終身刑」を言い渡された。
後年分かることだが、判決の決め手となった目撃証言は、検察側が証言者の弱みを握り、半ば脅迫と取引によってなされた偽証だった。そして、ハリケーンを有罪と評決した陪審員は全員が白人だった。
無実の罪で自由を奪われるのは、ハリケーンにとってこれが初めてではなかった。37年5月にニュージャージー州パターソンで生まれた彼は11歳の時、白人男性の腕時計を盗んだ罪で少年院に送られる。友だちを助けるための勇気ある行動を逆手に取られた濡れ衣だった。相手は地元の有力者。大人社会の強権と傲慢(ごうまん)、その根にある黒人差別に蹂躙(じゅうりん)され、10代のほぼすべてを少年院で過ごした。
14戦中11戦KO勝ち
18歳の時、ハリケーンは脱獄に成功し、軍隊に入る。ボクシングを始め、その才能を開花させたハリケーンは、ヨーロッパのライトウエルター級王者に就いた。が、除隊して故郷に戻ったところで収監され、残りの刑期(約10カ月)を務めた。
晴れて自由の身となった61年9月にプロ・デビュー。初戦こそ判定勝ちだが、その後の14試合中11試合でKO勝ち。激しいファイトで相手を倒すハリケーンはファンの熱い声援を受けるようになった。
デビューからわずか3年目の63年12月、ピッツバーグのシビック・アリーナで当時の世界ウエルター級王者エミール・グリフィスとノンタイトルで対戦。大方の予想を覆し、ハリケーンが1回TKOで王者を倒す番狂わせを演じた。この試合は「リングマガジン」誌の“今年一番の番狂わせ”に選ばれた。
破竹の勢い。いよいよ人気も期待も高まって、前述のジャーデロへの挑戦が実現したのだった。
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