【べらぼう】小芝風花「瀬川」が最後に魅せた花魁道中 豪華絢爛になった意外な理由

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白無垢の花嫁衣裳で最後の花魁道中

 盲目の富豪、鳥山検校(市原隼人)に1,400両(1億4,000万円程度)で身請けされ、 吉原を去る花魁、五代目瀬川(小芝風花)。その最後の日、白無垢の花嫁衣裳を着て、詰めかけた人々の前で最後の「道中」を披露した。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第10回「『青楼美人』の見る夢は」(3月9日放送)。

「よっ、瀬川、めでてえ!」と祝いの言葉が飛び交うなか、黒塗りの高下駄を履き、「外八文字」といわれる吉原独特の歩き方で、ゆっくりと格調高く歩を進め、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)とすれ違って、大門の外で待つ鳥山検校のもとに向かった。

 その日、蔦重は瀬川に餞別を贈っていた。自信が完成させたばかりの錦絵本『青楼美人合姿鏡』で、そこには本を読む瀬川の姿も描かれていた。

 蔦重は瀬川にいった。「女郎がいい思い出いっぺえ持って、大門出ていけるところにしたくてよ。お前も同じだったんじゃねえの? こりゃ2人で見てた夢じゃねえの? だから俺は、この夢から覚めるつもりは、毛筋ほどもねえや!お前と俺をつなぐものはこれしかねえからよ。俺はその夢を、ずっと見続けるよ」。瀬川は返した「そりゃまあ、べらぼうだねえ」。涙をにじませながら。

 この心を打つ場面があったから、最後の花魁道中はなおさら感傷を誘う、印象的な場面になった。

18世紀半ばまで「花魁」はいなかった

 ところで、瀬川はこれまでも『べらぼう』のなかで花魁道中を見せてきたが、この仰々しいまでに華やかな行列はいったいなんなのか。それを明らかにする前に、まず道中の主役である花魁とはなんであるかを記したい。

 吉原の女郎には厳格な格付けや階級があったが、時代によってかなりの違いがあった。吉原がのちに「元吉原」と呼ばれる、いまの日本橋人形町界隈にあったころは、そもそも「花魁」という言葉自体なかった。そのころの女郎には最上位の「太夫」を筆頭に、「格子」「端」といった階級があった。当時は夜の営業が認められなかったこともあり、客のほとんどは武士で、大名クラスも少なくなかった。このため太夫には、和歌や書道、茶道や書画、歌舞など幅広い教養や技芸が求められた。

 しかし、明暦3年(1657)に日本堤の「新吉原」に移転後は夜の営業が行われ、加えて経済的に町人が台頭するようになったので、吉原の客も町人が中心になった。その結果、教養ある太夫や格子より、気軽に遊べる女郎が好まれるようになった。

 新吉原への移転後、江戸各地の私娼が吉原に送り込まれ、「散茶」と呼ばれた。 宝暦年間(1751~1764)、すなわち蔦重の幼少期に太夫や格子が消滅すると、散茶が女郎の最高位になった。続く明和(1764~1772)のころからは、この散茶が「花魁」と呼ばれるようになったのである。

 ただし散茶にも階級があった。一番下の「部屋持ち」は、個室をあたえられたが、起居するのも客を迎えるのも同じ部屋だった。次の「座敷持」は、起居する個室と客を迎える座敷をそれぞれあたえられた。 これに対し、最高位の「昼三」は、昼と夜をともにしたときの揚代(女郎を呼んだときの料金)が金三分(7万5,000円程度)だったのでこの名があり、起居する個室と客を迎える座敷に、それぞれ上等な部屋をあたえられた。

 一般に「昼三」が花魁と呼ばれ(「部屋持ち」までを花魁と呼ぶ場合もあった)、同じ「昼三」でも最高ランクの女郎を「呼出し昼三(呼出)」と呼んだ。花魁道中を行ったのは、主に「呼出し昼三」だった。

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