“年相応”なんてナンセンス! 今年89歳の横尾忠則の「むしろ幼化を目指している」生き方とは
僕の嫌いな言葉に年相応というのがある。年齢にふさわしくあれ、という意味だと思う。僕的にこの問題を考えれば今年の6月には89歳になる。あと1年で90歳か。「ヒャーッ」と悲鳴を上げたくなる。90歳なんて人間の年齢じゃないですよね、とそう思っていたが自分がその年齢に近づいてくると、人間の領域を越えそうな気がして気持悪くなってしまう。
ところが現在日本には100歳以上の人が10万人近くいるらしい。もうお化けですね。どうしたらいいんでしょう。僕の養父母は69歳と74歳で死にました。だから僕もその辺りが寿命の目標だと思っていました。お爺さんは82歳で亡くなりましたが、近所でも珍しく長寿で、ここまではどうころんでも無理だろうなと思っていました。しかし現に僕はこの原稿を書いている時点では満88歳で、お爺さんを6歳も追い越してしまいました。
幼少年の時代から身体の弱い子供として育てられていたので、まあ養父の亡くなった年までは生きたいと思っていました。今、88歳になって何が不思議かと思うとやっぱり自分の年齢です。
このエッセイの読者は僕の年齢に似たりよったりの方がほとんどだと編集部から聞いています。ですから大方の人が年相応な生活というか生き方をしておられるのではないでしょうか。
年相応というのはどうも道徳的な態度のことを言っているように思います。そこで僕はじゃあ、年相応な物の考え方をしたり、年相応の体型をしたり、洋服を着たり、物を食べたり、年齢にふさわしい絵を描いているのか、ということになると、何ひとつ年相応なことをやっていないことになります。むしろ何を考えてもやっても、全て年不相応なことばかりです。
年相応なことは肉体だけです。歩くとどう見ても老人です。スタスタなんて歩けません。年相応にしろといわれなくても肉体は年相応に従がっています。あとは全部ダメです。肉体は手足だけでなく、五感もほぼ全滅です。だけど肉体以外のことはほぼ年不相応です。自分でいうのも変ですが肉体以外は若い人と同じくらい、場合によっては僕の方が若いかも知れません。
肉体は老化の一途ですが気持はむしろ幼化を目指しているように思います。それは僕が画家だからです。画家は心の中に幼児性を持つ必要があります。芸術の創造の核は幼児性(インファンテリズム)なんです。
それと幼児と同じようにあんまり考えたりしません。考えというより、むしろ想うことの方が強いのです。考えは頭、脳の作用ですが、想うことは心とか気持とか魂に近いものです。考えは知性や知識で脳の作用です。僕の場合、考えというより、ふと想うことを絵にするタイプなので、なるべく考えないようにします。絵を描く時はですよ。
でも考えてみれば年相応なんて実にナンセンスです。多くの人は60歳代で会社を停年になって、あとは退職金と年金での生活になると思いますが、こういう老夫婦だけの生活になると、半分は社会生活が失くなります。その分刺激も好奇心も失くなります。ついでに人間の欲望も次第に消えていくかも知れません。欲望や執着が失くなれば当然ストレスも失くなります。するとほっといても自然に延命路線に入っていきます。
だからですかね。こういう人がどんどん増えてきたので日本は長寿国になったのかも知れません。芸術家は若い間はストレスが多いです。名誉、地位、財産などのどれかひとつでも間違ったら社会悪を全部身につけてしまいます。
ですが、こういう芸術家でも名誉、地位を捨ててしまったら、老齢になって人と競争することも、人と戦うこともせずに、あとは好きな絵だけ描いていればいいのです。もう上手に描こうとか人や社会から評価されたいとかの時代はとっくに過ぎて、自分の好き勝手なことだけにしか興味が失くなります。
すると、先っき言ったストレスも自然に失くなります。当然病気も失くなり、多少ボケるかも知れませんが、延命せざるを得ません。もうこうなれば半分死んだも同然なので死の恐怖もありません。
そうなると絵はどんどん面白いものが描けます。別に画家でなくても、何かものを作る仕事をすればいいのです。75歳から絵を描きだしたアメリカの有名な画家、モーゼス夫人は職業画家でもないのに物凄く有名になってしまいました。75歳から描き始めて101歳まで生きました。箸で米つぶがはさめれば、絵は誰でも描けます。
でも、こういう人がどんどん増えて、びっくりするような変った絵を描き始めると困るのはわれわれの様な職業画家です。素人は何も知らないだけに何をするかわかりません。それが怖いので実は誰もあんまり絵は描かないでいただきたいのです。