「日本人だからこそ訴えることができた」…主演俳優「宝田明」さんが初代「ゴジラ」に込められたメッセージを「忘れてはいけない」と言った理由
「なんで俺を置いて帰った!」
引き揚げで南下する途中に食料が尽きて、列車が停車した隙に畑へと忍び込み、ニンジンを盗んだこともあった。野菜を売りにやってくる地元の中国人から衣服と物々交換で野菜を手に入れたりね。ついに交換するものが無くなって、乳幼児と引き換えに泣きながら食料を受け取る婦人もいました。いわゆる中国残留孤児です。
わが家も上の兄3人を戦争で亡くし、3番目の兄も満洲でソ連兵に連れ去られて行方不明になっていました。僕たちはどうにか日本海を渡って、父方の故郷である新潟県村上市に落ち着いたわけです。それからほどなくのこと。軍隊の外套を着た男が突然、わが家を訪ねてきたんです。
満洲で生き別れになった三兄でした。僕が抱きつくと、兄はこう言いました。「なんで俺を置いて帰ったんだ!」。とても感動の再会などとは呼べません。命からがら帰国を果たした三兄は、その後も親きょうだいと打ち解けることができず、早死にしてしまいました。
恨みと憎しみしか残らない
結局、戦争は必ず民間人を巻き添えにします。子どもたちが銃で撃たれ、婦女子は凌辱され、家族の絆も引き裂かれてしまう。その傷は生涯癒えることがありません。
戦後まもなく「シベリヤ物語」という総天然色のソビエト映画が封切られました。久しぶりにロシア語を聞きたいと思って観に行ったものの、5分もすると吐き気を覚えて丸の内日活劇場を飛び出してしまった。僕を撃ったソ連兵の顔が思い浮かんでね。やはり戦争の後には恨みと憎しみしか残らない。戦争がもたらす悲劇は決して風化させてはなりません。
日本は世界で唯一の被爆国なのだから、なおのこと反戦を訴え続ける責任があると思います。これはイデオロギーの違いとは全く別次元の話なんです。
さて、日本に帰国したものの、暮らしぶりは一向に良くならず、僕が中学生の頃に仕事を求めて家族で上京を果たします。都立豊島高校に進学すると、演劇部に所属して芝居の魅力に心を奪われました。そして、終戦翌年に東宝が開始した新人発掘オーディションの第6期に応募し、53年に東宝ニューフェイスとして俳優活動をスタートさせます。
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