路地裏へ引きずり込まれる女性、腹に撃たれた「ダムダム弾」を麻酔ナシで摘出…昭和の二枚目スター「宝田明」さんが語っていた終戦後の満洲国
終戦後に戦争の真の恐ろしさを知った
さて、1945年になるとそんな満洲の雰囲気は一変し、小学5年生だった僕でも戦況の悪化を感じ取れるようになりました。僕は兄3人と、姉、弟の6人きょうだいでしたが、上の兄2人は出征し、姉も遠方で働いていた。南方での戦が危うくなったと聞くたびに、兄姉の身を案じたものです。
そして、8月6日、雑音混じりのNHKラジオから〈広島に謎の化学爆弾が投下され、10万人の同胞が命を落とした〉というニュースが届けられます。人々が騒然とするなか、9日には長崎にも同じ爆弾が落とされたという。
誰もが不安を隠しきれないまま8月15日を迎え、満鉄の社宅に住んでいた父母と僕たち兄弟は、畳に正座しながら玉音放送に耳をそばだてました。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……」
天皇陛下のお言葉を聞いて、母はガクッと崩れ落ち、父が「終わったな」と漏らしたのを覚えています。幼い僕には意味が分からず、「どうしたの? 負けたの? 嘘だよね!」と父に食って掛かったのですが、「いや、天皇陛下が仰った通り、日本は負けたんだ」。
後年、あの光景を思い出して詠んだ短歌があります。
「威儀正し 玉音放送聞く我が家 終ったと父の声弱くして」
しかし、僕が戦争の本当の恐ろしさを知るのは、終戦後のことでした。
「憎きソ連兵め!」の思いは消えぬ
日本の敗戦が明らかになると、40~50輌ものソ連軍の戦車が隊列を成してハルビンに侵攻してきました。ただ、当時の軍国教育では「鬼畜米英」と教え込まれてきたものの、満洲には白系ロシア人の友だちもいたので、ソ連軍が怖いとは思わなかったんですね。
しかし、あにはからんや、ソ連軍は満洲で暴虐、略奪の限りを尽くします。挙句の果てに婦女子に対する凌辱も……。日本の軍隊は武装解除され、兵舎に閉じ込められていたので街は無政府状態です。日本の婦人たちは髪を坊主に丸め、風呂敷を被って集団で買い物に行きました。
ところが、ある日、僕が部屋の窓から外を見ていると、ひとりで歩いている婦人が目に入ったのです。すぐに、2人のソ連兵に捕らえられ、裏路地に引きずられて行った。彼女が「助けてください!」と叫んでも、マンドリンと呼ばれる自動機関銃で武装した兵士が怖くて誰も駆けつけられない。僕は無我夢中で交番に向かって走っていました。
もちろん、警官の姿はありませんでしたが、代わりにソ連の憲兵がいた。「カピタン・パジャーリスト!(将校さん、お願いです!)」と懇願して、どうにか現場まで連れて行きました。しかし、その婦人は辱めを受けた後でした。憲兵がこん棒で兵士たちを殴ると、彼らは慌てて脱ぎ捨てたズボンを穿きながら逃げ出しました。その時に感じた「憎きソ連兵め!」という思いはいまだに消えません。
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