僕は「不倫の孫」で妻は「不倫シングルマザー」のはずだった… 真実を知って40歳夫が身につけた新習慣
【前後編の後編/前編を読む】“自分の父親の愛人の息子を手伝う伯母が母代わり”…「妙な育ち」の40歳男性が、産みの親との再会に絶句したワケ
徳井勇斗さん(40歳・仮名=以下同)は、父の姉である伯母を母親だと思って育った。しかも父と伯母は“腹違いの姉弟”で、父は愛人、伯母は本妻の子という複雑な関係。“不倫の子”である父は心優しい性格だったが、勇斗さんが高校を卒業した時期に急死してしまう。その葬儀で再会した実の母からは金を無心され、彼は自分の人生の無常を痛感した。
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【前編を読む】自分の父親の愛人の息子を手伝う伯母が母代わり…「妙な育ち」の40歳男性が、産みの親との再会に絶句したワケ
社会人となって、職場の人たちともそれなりに人間関係を築いていく中で、勇斗さんはたびたび自分が「世間知らず」だと認識させられた。
「なんというのか、一般常識がまるっきりないんですよ、僕。たとえば結婚式のときになにを着ていけばいいのか、お祝いはどのくらい包むものなのかという基本的なことさえ知らなかった。それだけじゃなくて、たとえば上司に対する相づちひとつとっても、僕はどこかズレている。自分の何かがおかしいんだけど、なにがおかしいのかわからない」
職場で浮いている気がしてならなかった。だから自然と自分から発言したりアイデアを出したりはしなかった。みんなのあとについていけばいい。それで生き延びればいい。そんな姿勢で生きていくしかなかった。
「それでも3年ほどたつと後輩も入ってくるから、なんとなく中堅どころみたいな扱いになって……。あるとき上司とじっくり話す機会があったんです。『きみはおとなしいし、誰からも嫌われていないけど、実はもっと秘めたものがあるのではないかと思っている』と言われました。僕にはなにもできないから、みなさんのあとをついていくだけですと言ったんですが、『仕事が丁寧だし早い。自分なりに研究もしているようだときみの先輩たちが言ってる。でもどこかつかみどころがないとも言ってる』って。そのとき、自分の境遇についてすべて話したい欲求にかられました。でもやはり言えなかった」
言えなかったのは上司を信用していなかったからではない。自分の過去を言い訳にしたくなかったからだと勇斗さんは言葉を絞り出した。子どものころからすべて受け入れて生きるしかなかった。それを大人になった今、言い訳にしながら生きるのがどうしても嫌だったのだ。
「よく、人に話すと心が軽くなるって言うけど、僕にはそうは思えなかった。人に話すと、その言葉は自分に返ってくる。二重に傷つくだけ。当時は受け入れて生きるしかなかったけど、結局、僕は過去を受け入れてなかったし、どこか自分のことではないような位置づけをして生きてきたんだと思います」
上司と話すことで少し自分を分析することができた。自己否定が強いわけでもないが、自己肯定感もまったくなかった。存在しないように存在してきたのだと自分のことがわかっていった。そしてそこから彼は徐々に変わっていく。
「変わっていくといっても、ほんの少しずつですけどね。同僚や先輩たちに、家庭の事情でたぶん育ち方がおかしかったので世間のことがよくわからないと打ち明け、助けてもらいました。どういう育ち方だったのかと根掘り葉掘り聞いてくる人はいなかった」
披露宴で出会った女性
28歳のころ、職場の先輩が結婚し、その披露宴に参列した。トイレに行こうと会場のホテル内を歩いていると、突然横から走ってきた小さな男の子に、持っていたソフトクリームをズボンにべったりつけられてしまった。あとから追ってきた母親はひたすら謝ってきたが、シミは簡単には落ちなかった。
「披露宴の最中ですから、会場に戻らないといけない。とりあえずいいですからと言って、会場に戻りました。披露宴が終わって廊下に出たら、そのおかあさんが待っていた。本当に申し訳ない、クリーニング代を払ってすむ話ではないと思うけど、とりあえずはこれでと封筒に入ったお金を押しつけられて。そこには彼女の名前と連絡先も書いてありました」
勇斗さんはクリーニング代の残りを返すため、優美さんというその女性に連絡をとった。
お詫びに食事でもと言われ、断り切れずに誘いに乗った。女性とデートするなどほぼ初めての経験だったが、あわてて「これはデートではない」と自分に言い聞かせた。
「優美は子どもを連れてきました。そりゃそうですよね、考えたら子どもを連れてくるに決まっている。4歳になるその子は、僕に『あのときはごめんなさい』と素直に謝りました。もういいよ、気にしなくてと言い、3人でお好み焼き屋さんに行ったんです」
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