郷ひろみに憧れ芸能界に入るも…「親にも言えない」 ややのザンネンすぎた歌手デビュー
モデル事務所に所属し、CMデビュー
その後、高校に入るとモデル事務所に所属することになった。5歳上の姉が東京・銀座でスカウトされ、事務所に行く際に「一緒に行こうよ」と促され、ついていった先でややもスカウトされたのだ。
「別にモデルをやりたかったわけじゃないんですけどね。学生だから遊び半分みたいな気持ちもあって」
雑誌などの仕事をこなしながら、高校3年時には、CMデビューも果たした。生理用品のCMで、グアムへロケに行った。「健康的な女の子っていいね!」という台詞を話す松崎しげるの横にいる、何人かの女性たちの一人がややだった。
高校卒業後には、夜の人気エンタメ番組「11PM」のカバーガールも務め、20歳のときには、マッハ文朱が主演した映画「宇宙怪獣ガメラ」で銀幕デビュー。「平和星M88のスーパーウーマン」のマーシャ役だった。さらに、クイズ番組「ズバリ!当てましょう」のアシスタントなども務めた。
「別に女優もやりたいとは思わなかったんですが、オーディションに行ったら受かっちゃって。なかなか音楽の仕事はなかったんですが、『ズバリ!当てましょう』では、歌手の人もゲストに来るんです。歌も歌うんですが、リハーサルなんかを見ながら、『私もここで、自分の歌じゃなくてもいいから歌ってみたいなあ』なんてことを考えていました。ピンクレディーさんも来ましたし、そうそう、郷ひろみさんも来たんですよ。お嫁さんにしてくださいとは言わなかったですけど(笑)」
ついに歌が! しかし「ヒマラヤ・ミキ」!
21歳頃にモデル事務所を退所し、その後、別の芸能事務所に所属して改めて歌手デビューを模索していた。自分のデビュー曲はどんな曲だろうと心躍らせる毎日だったが、実際にデビューが決まると、用意されたのは1971年の平山美紀のヒット曲「真夏の出来事」のカバーシングル。そしてアーティスト名は「ヒマラヤ・ミキ&MODOKEES」。そう、“本人もどき”でのデビューだったのだ。ジャケットはシティポップ風の海辺の風景の絵で、やや本人の写真すらなかった。
「モドキーズだから全部が“もどき”な感じでしたよね。1週間ぐらいは親にも言えなかったですよ。みんな私のデビューを楽しみにしてるのに、ヒマラヤ・ミキ、なんてね。ジャケットも大瀧詠一さんみたいな感じだし。B面の『二人のバカンス』は私のために作られた曲だったんですけど、何と言ってもカタカナでヒマラヤ・ミキでしたからね。やっとの思いで親に伝えたんですが、『別にいいじゃない、やるだけやってみれば』と言ってくれましたね」
ヒマラヤ・ミキとしては約半年間活動した。もちろんそれで満足したわけではなかった。
「もう23歳ぐらいになる頃だったのかな。自分でも詞や曲を作ってみようとかね。ユーミンにでもなろうかみたいな気持ちでちょっと勉強してました。そんな頃のことでした。『夜霧のハウスマヌカン』という歌があって、それを歌う人を探しているという話を聞いたのは」
運命の曲との出会いだった。東芝EMIのディレクターに声を聴かせると、一発OKが出た。10日後にはレコーディングすることに。トントン拍子で決まっていったが、これも、記念すべきデビュー、というわけにはいかなかったのである。
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運命の曲「夜霧のハウスマヌカン」との邂逅を果たしたやや。第2回【「夜霧のハウスマヌカン」元案にそれだけはイヤ… やや語る再スタートと「ランバダ」では「3キロ痩せた」】では、その秘話や、さらに後の「ランバダ」のヒットなどについて語っている。