「朝青龍が“みのさんには勝てない”と語るほどの酒豪」 みのもんたさんの“豪快伝説”について徳光和夫が明かす【追悼】
くすぶっていたみのさんに訪れた転機
大学卒業後、文化放送に就職。アナウンス業務を主体とする報道記者としての採用だったが、本人は不本意だったようだ。
〈僕は新聞記者になりたくて、毎日新聞を受けたんです。そしたら後に「サンデー毎日」の編集長になった牧太郎さん(80)が受かって、僕は落ちて。TBSも久米宏(80)が受かって、僕は落ちて。結局、産経新聞、フジテレビ、ニッポン放送、文化放送をまとめて採用したフジサンケイグループに入ったんです〉(「週刊朝日」2002年4月26日号)
入社後も会社の水が合わず、くすぶっていたというが、最初の転機は入社3年目、24歳のときだった。深夜ラジオ番組「セイ!ヤング」のパーソナリティーに起用されたのだ。
「深夜放送で非常に熱いファンの人たちが増えて、みのちゃんも自分の話芸に自信を持つようになりました。レコード会社の人たちと一緒に、その会社の交際費でよく飲んでいたのを覚えています」(徳光氏)
妻の「何やっても食べていけるから」の一言
靖子さんとも70年に結婚し順風満帆だったのも束の間、人生に暗雲が垂れ込める。深夜番組などで喋る仕事から外されてしまったのである。代わりに命じられたのが、スポンサー企業のインスタントコーヒーの販促だった。
〈朝7時に文化放送の倉庫に行って、4トン車にインスタントコーヒーを積んで、スタッフ4人で1日にスーパーを4軒ぐらい回って、店頭でインスタントコーヒーのいれ方の模範演技をした〉(前出・「週刊朝日」)
しかし一度は若者の代弁者として、スポットライトを浴びた身だ。裏方に徹することはできなかった。79年9月、35歳で文化放送を退社。当時、長女は1歳で、靖子さんは2人目の子供となる長男を身ごもっていたが、みのさんの背中を押したのは妻の「何やっても食べていけるから」の一言だったという。
生活のため、みのさんは父親が経営する日国工業の社員を兼任した。著書『敗者の報道』で、当時をこう回想している。
〈僕に与えられた仕事は他の営業担当が“しに号線”といって嫌がる国道42号線沿い(中略)をライトバンを駆って巡回するいわゆる“御用聞き”でした〉
[3/4ページ]