村上総務相の「県庁不要」どころか不要なものだらけ 人口減の議論を避ける政治家の責任

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村上総務相の正論を受け入れられない日本

 いまの日本にとって喫緊の課題は、「年収103万円の壁」の見直しや高校授業料の無償化ではなかったはずだ。いちばん必要なのは、今後の人口減社会を見据えることと、それに合わせて社会を縮小させるプランをつくることだろう。それこそがわれわれ、および子や孫の将来を、生活の水準や質にいたるまで決定的に左右するに違いない。

 少子化が進むスピードは、大方の予想をはるかに上回っている。2月27日に厚生労働省が発表した2024年の人口動態統計(速報値)によれば、国内の出生数は72万988人だった。70万人割れが確実だといわれていたので、踏みとどまった印象を受けるかもしれないが、突きつけられたのは甘い数字では決してない。1899年に統計を取るようになってはじめて100万人の大台を割り(97万6,979人)、深刻に受け止められたのは2016年のことだが、それからわずか8年で、さらに二十数%も減少したのである。

 100万人を割った翌年の2017年に国立社会保障・人口問題研究所が発表した「日本の将来推計人口」では、出生数は2033年に80万人を割り、46年には70万人を割り込むという、当時としては「悲観的な」見通しが記されていた。ところが、11年も早い2022年に80万人を割った。来年か再来年にも70万人を割るとすれば、予測より20年も早い。

 ちなみに死亡数は161万8,684人で、出生数の2倍を超える。人口の自然減、すなわち出生数と死亡数の差は89万7,696人で、この勢いで人口が減れば、あと二十数年で日本の人口は1億人を切る。また、出生数が死亡数の半分以下ということは、将来、若い世代は、自分の世代の2倍以上もいる高齢世代を支えざるをえないことにもなる。

 これはもはや不可避の未来である。後述するように、いまから国づくりを根本的に見直すつもりで手当てをしておかないと、おそらく、われわれは子々孫々に不幸を押しつけることになる。

 そんななか2月13日の衆院予算委員会で村上誠一郎総務相が示した見解は、的を射ていた。21世紀末に、仮に人口が現在の半分の5,000万~6,000万人になった場合、「国県市町村というシステムが構成できるかどうか、非常に危惧を持っている」「いまのような1,700以上の市町村の構成は難しい。全国を大体30万、40万人の市で区切れば、全国300から400の市で済む。その市と国が直結して交渉できるシステムが一番いいのではないか。極端なことをいうと、県庁も全部いらないし、道州制も意味がない」などと語っていた。

 ところが、この発言が波紋を呼んでしまうのが日本の国会である。

国民をキリギリスにする野党

 将来、現在の社会基盤を支えるのが困難な水準まで人口が減ることが確実視されている以上、近未来への見通しを語り、国づくりや社会設計をどう再編していくか、グランドデザインを提示して国民に考えるヒントを提示するのは、政治家の責務だろう。村上総務相の場合、「個人的な見解」と前置きしてからの発言だったが、こうして議論の端緒が提示されることは歓迎すべきことのはずだった。

 ところが、国会ではこれが問題発言としてあつかわれてしまった。翌日の衆院予算委員会では、立憲民主党の落合貴之議員が「不適切、不用意な発言だという意見も多数出ています」と指摘したうえで、村上総務相に見解を問いただした。

「不適切、不用意」だという意見のひとつの典型が、法政大学の白鳥浩教授の次の意見だろう。「何を目指すうえで『県庁はいらない』ということになるのか、しっかりと村上氏は説明する責任がある。そうなった場合に、県庁の職員はどうなってしまうのか、都道府県が行っている事業は国が行うのか、それとも市町村の基礎自治体が行うのか。そうした示唆がなければ、混乱は続く可能性がある」

 だが、こうした見通しが示されて「混乱」するくらいでないと、国民のあいだに危機意識が浸透しないのではないだろうか。

 数十年後の見通しについて、「何を目指す」とか、そのときに事業をどこに移管するか「示唆」が必要だなどと求めるのは、ナンセンスだ。村上総務相のような発言は、議論のとっかかりにすべきもので、今回も人口減社会の設計プランを議論するよい機会が得られたはずだ。

 しかし、問題発言であるかのように指摘され、野党の追及を受け、議論を深めるチャンスが失われてしまった。仮に野党が村上総務相に、「そこまでわかっているなら、なぜ早くプランの策定に取りかからないのか」という追及をしたなら意味があった。だが、現実には、不都合な未来から目を背ける姿勢ばかりが目立った。

 103万円の壁や高校授業料の無償化といった、直近の選挙で票につながりやすい口当たりのいい政策ばかりを強調し、猛烈な勢いで迫る冬の時代から目を背ける政治家は、それこそ国賊のようなものではないのか。飢えが避けられない冬がそこまで迫っているのに、みずからの党勢拡大のためにバラマキ政策を推し進め、冬のための貯えを減らしているのは、イソップ寓話の「アリとキリギリス」そのものである。

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