スキャンダル対策で始まった「赤坂もんた会」20年 最後のメンバーが綴る数々の夜と「果たせなかった約束」
みのさんを“御馳走”した夜も
2018年12月に、みのさんゆかりの赤羽のキャバレー「ハリウッド」が閉店するということで、「最後に一緒に行きませんか」とメールしたことがある。事務所を通さず直接にである。反応はないだろうとダメ元で送ったのだが、すぐに電話がかかってきた。「嬉しいよ、よく声をかけてくれた。行こう!」。そして閉店2日前のハリウッドに2人で乗り込んだ。
別の日には銀座のクラブに連れて行ってくれた。「今から楽しい人が来るよ」と言われ、待っていたら高田純次さんが現れた。銀座のクラブといえば、「もんた会」のメンバー5人で“最後の恋人”が働くお店に連れて行ってもらったこともあった。その女性を「介護の勉強をしている」と紹介された。メンバーで記念写真を撮影する時、女性はスッと写らない位置に移動した。週刊文春が報じるより前のことだった。「もんた会」が田町の料亭で行われた時には、「ちょっと電話代わって」とみのさんから携帯電話を渡された。相手は梅沢富美男さんだった。この日も飲みすぎてよく覚えていないが、梅沢さんに説教をされたような記憶がある。高田さんの時も、梅沢さんの時も、みのさんはこっちが驚く様子をみながらニコニコしていた。
「もんた会」ではいつもみのさんが全額払ってくれていた。だから「今度は我々5人が払います」という日を作った。我々が払える範囲だから高い店ではないが、みのさんはいつものように楽しんでくださった。会計が終わって店を出る時になると、「これ、みんなに」と紙袋を渡してくれた。中身は、女性にはエルメスのスカーフ、私にはブリオーニのネクタイが入っていた。その総額は、明らかに我々が払った食事代より高かった。
最後の「もんた会」は昨年7月
最後の「もんた会」は、昨年7月。場所は、ここ数年の会場で、みのさんのお気に入りだった八丁堀の会員制のお店だった。
みのさんは「祇園に行ってから、来年で10年か。あの時は楽しかったねぇ。じゃあ、10周年でまた行こうか」と言ってくれていた。その場で「あの時、みのさんを祇園に連れて行くと言っていたよね」とメンバーから指摘された私は、「言いました。忘れたことはありません。いつか自分がお連れしたいと、今もずっと思っています」と再びみのさんの前で宣言した。こんな日が来ようとはつゆほども思っていなかった。
こうした交流を“癒着”のように見る人もいるかもしれない。私自身も、ジャーナリストではないものの、メディアに関わるものとしてタレントとはどこかで一線を引き、深く関わりすぎてはいけないと思っている。タレントにとって我々メディアは自らの利益のために利用したい存在であるし、一方で私自身、もしくは自分が関わっている媒体が相手を“裏切る”ことが起こり得るからである。立場を忘れた関係性を築くと、深い傷を負うことになる。フジテレビのA氏と中居正広氏の問題のように。
みのさんともんた会メンバーの間でも、まさにそういう“裏切る”事態が起きた。息子さんの事件の時だ。当然、我々の社も記事にした。ここに私情は入らない。もしかしたら「今まで仲良くやってきたのに、味方してくれないのか」とみのさんは怒っていたかもしれない。だが、そうしたことを乗り越えて2014年に再開した「もんた会」で、みのさんが我々に文句を言うことは一切なかった。
再開後のもんた会は、当初の「マスコミ対策」の会を超え、みのさんを慕い、尊敬する5人と、そんな5人を面白がってくれるみのさんの、強い絆を確認する会になっていたように思う。
振り返ると、みのさんはテレビで視聴者を楽しませ、オフに会う我々もいつも楽しませてくれた。関わった人をどこまでも楽しませたい、生粋のエンターテイナーだったと思う。楽しくて優しくて温かい人だった。私は今、この原稿を書きながら、みのさんの温かさを思い出して泣いている。
いつか5人とマネージャー、そしてみのさんの写真と共に祇園へ行く。そこでどんちゃん騒ぎしながら、みのさんの思い出を語る。それが新しい目標になった。きっとみのさんも上から見て喜んでくれるだろう。落ち込んでいる暇はない。今度こそその日を実現させるために、稼がなければ。