スキャンダル対策で始まった「赤坂もんた会」20年 最後のメンバーが綴る数々の夜と「果たせなかった約束」
酒豪で知られたみのさんが結婚式に出席 新郎の運命は…
「赤坂もんた会」の初期の会場は赤坂の洋風居酒屋。新聞・スポーツ新聞各社の記者が多数いて、テレビ局側のスタッフも入れれば、40~50人は集まっていたと記憶する。雑誌記者もいたような気がするが覚えていない。なぜなら毎回、みのさんに飲まされすぎて潰れたからだ。
2007年、みのさんが多忙を極めた時期に、結婚式に出ていただいたのだが、私はそこでも潰された。クラッシュアイスになみなみと注がれたブランデーが目の前に届き、何事かと思い顔を上げると、向こうにいるみのさんが口元で“クイクイ”と手を動かし「飲め」のジェスチャーをしていた。飲んだらすぐ次のグラスが届き、またみのさんが口元で“クイクイ”と。何度かそのグラスが届き、そこから記憶がなくなった(笑)。だから私は自分の結婚式の記憶がない。
赤坂の洋風居酒屋が閉業するまで、赤坂もんた会はこの店が会場となり、以後は店を転々とした。外国人記者クラブ(日本外国特派員協会)でみのさんが会見した後、隣接するバーで集まったこともある。大人数で始まった赤坂もんた会だったが、場所が赤坂ではなくなり、次第に人数も絞られていった。いつからかテレビ局の女性局員1人とスポーツ新聞の女性記者3人、そして唯一の男性の私という5人が“いつものメンバー”になっていた。
みのさんに連れられ、祇園へ…
2012年に妻の靖子さんが亡くなり、翌年の次男の事件があった時期は会も中断した。2014年にみのさんが都内のホテルで「古希の祝い」を開いた後から「もんた会」は復活。この時からメンバーは上記5人に固定された。
久しぶりのもんた会で、みのさんが「みんな、祇園って行ったことある? 次は祇園で集まろうか」と提案した。そして2015年夏、ホテルオークラ京都に集合して、最初に一見さんお断りのおでん屋で食事したあと、祇園に移動して芸者さんと飲むことになった。
芸者さんと一緒に次々と河岸を変え、ある料亭では伝統的な外観から想像できないようなモダンな内装に驚いた記憶がある。初めてのお座敷遊びに喜んでいる我々のそんな姿を、みのさんはパイプを燻らしながらニコニコと見ていた。こういう時にみのさんはアレコレと言ったりはしない。「お前は遊び方が…」なんて上から目線は全くなかった。ただ一緒に楽しみ、楽しそうに様子を見ているのである。
そして我々は一円も払わなかった。感謝の気持ちをどうしても伝えたかった私は、その場でこう言った。「みのさん、いつか僕が祇園にお連れします。そういう男になります」と。結局、亡くなるまでにその日を迎えることはできなかった。それどころか、私はジリ貧状態だ。
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