「連絡を待っている時間が一番つらかった」 津波で両親を失った作家・柚月裕子が語る東日本大震災
昨年本誌(「週刊新潮」)で連載された柚月裕子さんのクライムサスペンス『逃亡者は北へ向かう』がこのほど上梓された(2月27日刊)。東日本大震災から十余年を経て、東北に住む両親を津波で失った著者が、つらい体験を踏まえてつづった渾身の力作である。柚月さんに話を聞いた。
その日、山形県では震度5強を記録した。2011年3月11日のことである。
「自宅にいて、すごい揺れを感じた。しかも経験したことのないような長い横揺れでした」
と、作家の柚月裕子さんは振り返る。彼女は岩手県釜石市に生まれ、結婚を機に30年ほど前から山形県で暮らしている。
「岩手県の三陸は微震が割と多い。それで地震には慣れているところがあったのですが、あの揺れは明らかに私が知っている地震じゃないと感じました。それがしばらく続いて、部屋の中もいろいろモノが落ちてきて。それでも、地震の強さより揺れの質が全く違うことに一番驚きました」
このとき山形県では、地震によって約53万戸が停電した。後に県が発表したところでは、震災によって3名が死亡、45名の重軽傷者が出たほか、建物被害は約1400棟に及んだ。
「とにかく状況が分からないのでテレビ、と思ったけれどつかない。辺りから一切の音が途絶える感じで、どうしようと思ううち、車のカーナビのテレビをつけてみたら、映った映像が岩手や宮城の沿岸とか。すごく覚えているのは、自分の実家のそばにあった建物に、津波が屋根にかぶさって到来している映像が流れていたことです。あ、この建物で津波がここまで来ているのなら、もう実家は無理だと分かった。あとは逃げてくれていることを願うしかありませんでした」
「連絡を待っている時間が一番つらかった」
彼女の両親は、岩手県中部沿岸部の宮古市に住んでいた。実家は、三陸海岸から目と鼻の先である。
「いろいろ混乱している中にも冷静に考える自分がいました。今、電話をかけて、まだ逃げている途中で、時間を使わせたらまずいな、とか。それからしばらくして、初めて固定電話や携帯にもかけたけど、全然つながりませんでした」
実家とは連絡がつかず、3~4日、家でじっとしているほかなかった。電気が復旧し、三陸地方の被災状況は刻々と入ってくる。携帯電話もつながるようにはなるのだが、
「こちらから実家に電話してもつながらないので、ただ連絡を待っているしかなかった。もうずっと携帯を握りしめ、固定電話にかかってくるかもしれないから家も出られない。固定から離れるときは携帯に転送できるようにしておくとか、そういうことをしながら、ただひたすら待っている。震災が起きて一番つらかったのは、その待っている時間でした」
震災から1週間後、車で被災地へ
被災地にすぐ行くこともかなわなかった。
山形市内から岩手県宮古市まで車を運転して行くのに通常でも6~7時間かかる。宮城県の仙台市内を抜けて岩手県盛岡市までひたすら北上し、そこから東へ、北上山地を横断する国道106号線を通って宮古市に到る。
現在では復興道路が開通して時間は短縮されているのだが、このときには道路そのものが被災していた。
破壊されて寸断された道路があり、緊急車両しか通行できない道がある。罹災を証明する通行許可証も必要らしく、それをどこで発行してもらうのか。しかし、そもそも往復に必要なガソリンが手に入らない。
「いろんなものが目の前に立ちふさがって、結局、実家のあった宮古市へ行けるようになったのが震災から1週間後のことでした」
と、柚月さんは言う。ようやく、彼女は単身、愛車を運転して北へ向かった。
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