「みのもんた」さん「おもいッきりテレビ」秘話 名物“フリップ芸”は「台本を覚えてこないから」

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 3月1日未明、フリーアナウンサーでタレントのみのもんたさんが亡くなった。80歳だった。2006年には「1週間で最も長時間、テレビの生番組に出演する司会者(21時間42分)」としてギネス世界記録に認定。文字通りテレビで見ない日はない人だった。そのきっかけとなった「午後は○○おもいッきりテレビ」(日本テレビ)の関係者に話を聞いた。

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「おもいッきりテレビ」がスタートしたのは1987年10月。もっとも、当初の司会はみのさんではなかった。関係者は言う。

「初代の司会者は『岬めぐり』や『走れコウタロー』で知られるシンガーソングライターの山本コウタローさんでした。当時、お昼の時間帯は『笑っていいとも!』(フジテレビ)の全盛期で、なんとか打ち負かしたいと思っていたのですが、たしか視聴率は2~3%くらしか取れていなかったと思います。そうした中、山本さんが89年の参院選に出馬を表明したので新たなMCを探すことに。番組としてはこのままじゃいけないと考えていたので渡りに船ではあったのですが、それでも、みのさんを起用するなんて誰も考えていませんでしたよ」

 みのさんは67年に立教大学を卒業すると文化放送に入社。第一志望はTBSだったが不合格だった。深夜放送「セイ!ヤング」の初代パーソナリティに抜擢され一躍人気者となるも、営業部へ配転されたため79年に退社。その後は父親が経営する水道メーター製造・販売会社の営業として働きながらフリーアナウンサーの仕事を続けた。別の関係者が振り返る。

「当時の日テレの局アナを見回すと、ベテランの金原二郎さんは退職していたし、徳光和夫さんは朝の情報番組『ズームイン!!朝!』から夕方の『ニュースプラス1』に移ったばかりで、福留功男さんは『ズームイン』を引き継いだばかり。『おもいッきりテレビ』の新MCは外部から呼ぶしかありませんでした。そこで前年から番組内の『あらみてたのね』というVTRコーナーでナレーションをしていたみのさんに白羽の矢が立ったんです」

 89年4月、みのさんは「おもいッきりテレビ」の2代目MCに就任する。文化放送を退社してから10年が過ぎようとしていた。

苦肉の策の“フリップ芸”

「みのさんのMC就任と同時に番組フォーマットをガラッと変えました。オープニングでは15分ぐらいの尺でワイドショー的にニュースを伝え、それが終わるとようやく『おもいッきりスタートです!』と言って番組タイトルと提供クレジットが入ります」

 裏番組「笑っていいとも!」の名物コーナー“テレフォンショッキング”が終わる頃だ。

「オープニングの後は生活情報になりました。13時またぎで高島忠夫・寿美花代夫妻が司会の料理コーナー『ごちそうさま』、過去のニュースを振り返る『きょうは何の日』、そして大当たりした人生相談の『ちょっと聞いてョ!おもいッきり生電話』に続くようになりました」

 みのさんがどんなシニアに対しても“お嬢さん”と呼びかけた、あのコーナーだ。

「視聴者の悩みを聞くだけなんですが、みのさんの“お嬢さん”と実演販売の口上にも似た香具師的な立て板に水の喋りがウケました。なんでも、学生の頃、近所に来た物売りの声を聞いて目覚めたそうです」

 生活情報では、今でいう“フリップ芸”も人気だった。

「みのさんがフリップを使って解説するわけですが、あれは苦肉の策で生まれたものなんです。番組の打ち合わせは朝10時半から30分程度行われていました。でも、みのさんは聞いている振りをしているだけで全然聞いてない。台本は覚えていないし、リハでは手抜きがバレバレなので、総監督がフリップを使うことを思いついたんです。フリップをめくりながら、裏面のコピーを読み上げるだけで番組が進行できますからね」

 ともあれ、数字は上がり始めた。

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