「まだまだ生きてまいりたいと思います」【追悼・西村修】将来の「新日幹部候補」を棒に振っても貫いた“無我スタイル”な人生

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癌患者となって…

 そんな、本人の特長でもある、揺るぎない意思に拍車がかかったのは、1998年8月のことだった。最初の癌が発覚したのである。

 右足の付け根のしこりから、後腹膜腫瘍が判明し、摘出手術を受けた。放射線治療をすると他の元気な細胞も死んでしまうため、東洋医学や自然食の摂取等、自力での体質改善に挑んだ。本人の表現を借りれば、「命よりも、プロレス(が出来る体)を取った」結果だった。

 翌1999年より、「人は何のために生きるか」を追い求め、全世界を放浪。インドでヒンドゥー教の奥義を学び、貴重な箴言を授かった。

「肉体は一つの船であり、魂が船長。船は老化しても、魂は生き続ける」

 一種の輪廻思想に触れ、自分なりの悟りを開いた西村は、2000年6月にプロレスに復帰。その試合後、こう語った。

「メスでも薬でもない。闘うのは自分自身だということ。それをプロレスを通じ、世の中の人に訴えたい」

 気が付くと、西村の支持者は増えていた。三冠統一ヘビー級選手権を戦った王者、川田利明は、こう激賞している。

「いい選手。自分の間合いを持ってるし、プロレスは、技を多く出せばいいってもんじゃないってことを凄くわかってる」

 以前に紹介した新日本プロレスの永島勝司が、新日を離れた2003年から2004年頃、よくこう言っていたのを思い出す。

「俺なら、今の新日本プロレスのトップには西村を推挙するね。彼のプロレスには主張がある。だから、誰とやってもドラマが出来ると思うんだよな」

 素顔はワイン好きで、六本木等の高級飲食店にも精通していた品格ある大人といった西村だったが、傍らで自らの人生に多大な影響を与えたインドへのツアーを主宰。この時出会ったファン達とは胸襟を開き、フロリダのカール・ゴッチ邸に招待したり、京都の鴨川で楽しく酒杯を傾けたりした。2006年から、慶応大学通信科で哲学を履修。そして、「ブレない。風に乗らない」を政治信条に文京区議になってからは「食育」を活動の柱にした。具体的には学校給食の和食への移行などに腐心。欧米式の食事が完全に食卓を支配していることを危惧し、ファストフードに対する区からの規制も目指していた。インタビューの際、こう語っていたのが心に残る。

「今では食も経験も、何でもインスタント。手軽に消費されるものが好まれる。この傾向に、歯止めをかけなければいけないと思ってるんですよ」

 古くからあるプロレス・テクニックを大事にしたのも、時流に流されまいという意思表示だったかも知れない。そして、先人をことさら大切にした。“神様”、カール・ゴッチの日本の寺への分骨に東奔西走し、その墓を東京・荒川区の回向院に建立した(2017年7月)。

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