「まだまだ生きてまいりたいと思います」【追悼・西村修】将来の「新日幹部候補」を棒に振っても貫いた“無我スタイル”な人生
2010年7月2日、全日本プロレス・後楽園ホール大会のリング上に、田中康夫氏が立った。ベストセラー作家であり、数々の女性遍歴も話題になりながら、2000年から6年間務めた長野県知事時代は、実行力溢れるリーダーぶりで高評を獲得。この時期は衆議院議員だった。その田中氏がマイクを取り、隣のプロレスラーを紹介した。
【写真】「まだまだ生きてまいりたいと思います」リングから熱いメッセージを投げた西村修、現役最後の試合
「私、惚れた女性はたくさんおりますが、男に惚れたのはこの人だけです。西村修!」
同じ国民新党から出馬した、西村修の応援演説だった。同党代表の亀井静香氏もリングに登場したと記憶している。この時は落選するも翌年、文京区議に当選。以降、区議とプロレスラーを兼務し、多忙な日々を送っていた西村選手の訃報が2月28日、伝えられた。享年53。仕事や取材でお世話になった故人の人となりを綴り、哀悼の意を表したい。
「本当に頑固な子だから」
1971年、東京都文京区に生まれ、1990年、新日本プロレスに入団。若手選手を指す“ヤングライオン”時代は、“(新日本プロレスの)将来の幹部候補”と誌上で評されるホープだった。理知的な風貌に生真面目な性格、そして、当時から基本技を大切に試合を組み立てていた姿勢もあったのだろう。確かに新日本プロレスが旗幟とする“ストロングスタイル”の体現者にふさわしい新鋭だった。
シャープなドロップキックはスター性十分で、若手時代に何度か見せたムーンサルトは、武藤敬司の直伝だった。1993年には、「第4回ヤングライオン杯」に準優勝し、優勝者の山本広吉(天山広吉)と共に、将来を嘱望され、8月には海外武者修行に出た。
しかし、1994年11月、早くもその雲行きが怪しくなる。翌年1月4日の東京ドーム大会への凱旋帰国を本人が拒んだのである。理由は、「まだまだ海外で吸収したいものがある」というものではあったが、実は修行先のマーケットが冷え込んでおり、月に1試合程度しか出来ない状態で、「このまま帰っても意味がない、と思ったのが本当のところ」とは、後に聞いた本人の弁である。
しかし、新日本プロレスとしては目玉の一つが無くなったことで大問題に。ところが、西村も頑として帰国を聞き入れず。新日本プロレスからの送金は、以降、ストップしたという。
実は西村に関しては、近年、筆者も携わる映像コンテンツで取り上げようと、取材を進めていた。その際にヒヤリングした、ご親族の言葉が甦る。
「あの子(西村)は、本当に頑固な子だから……」
若手時代の象徴的なエピソードがある。先輩レスラーの足にと頼まれて自家用車であったスカイラインを道場に横付けすると、ある目上の関係者が激怒し、「このポンコツ車、誰のだ!」と移動を厳命。最初は黙っていた西村だったが、自分のものだとバレると、その、30歳は年上のベテラン関係者に、こう返した。
「僕のスカイラインは、ポンコツではありません!」
自分を勧誘していたnWo軍の蝶野正洋、武藤敬司組と、東京ドームで対戦した。先にリングインしていた西村は、彼らの入場時に花道を直進。先制攻撃でもするのかと思いきや、そのままこれ見よがしに背中を向けてまた去って行った。ガウンの背面には、自らが標榜するプロレス理念である“無我”の2文字が染め抜かれていた(1998年4月4日。パートナーは橋本真也)。
佐々木健介の持つIWGPヘビー級選手権に初挑戦する直前、「つまらない試合になりますよ」と自嘲的に予告したことがあった。いざ試合が始まると、終盤、ドロップキックのみという攻め手を見せた。その数、計9発。当時の現場責任者である長州力に象徴される、いわば“ラリアット・プロレス”という様式に、“無我”スタイルを貫くことで、異を唱えたのである。
筆者の体験から紹介すると、1970年代から新日本プロレスを支えた要人と西村との対談が終わった直後、予想外の連絡が西村から入ったのを思い出す。
「今回の対談はなかったことにしてくれませんか?」
問題があるようには全く思えない内容だったのだが、西村的には何か違うと思ったのだろう。やむなく、それぞれを個別にインタビューしたような2つの原稿に書き換えたのが懐かしい。
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