「遺体から立ち上る青い炎」「炎で空は真っ赤に、桜は桃色に染まっていた」…脳裏に焼き付いて離れない「東京大空襲」の記憶【3】
焼け残ると申し訳ないという気持ちも
B-29の東京空襲は、終戦まで100回以上に及んだ。戦火に逃げ惑う国民は疲弊し切っていた。
「もう、あの空襲から60年が経つと思うと、ゾッとするような思いがします」と、元東京三菱銀行副会長の吉澤建治氏(72)はいう。
「当時、麻布に住んでおりましたが、我が家が被災したのは5月25日のことでした。その日、家の者たちは前日の大空襲のため、疲労困憊して熟睡していたのです。警戒警報が鳴っても起きず、空襲警報が鳴って、ようやく眼が覚めた。家は丸焼けになりましたが、これで人様並になったなと思いました。あの頃は、周りが酷くやられていましたし、焼け残ると申し訳ないという気持ちを抱いたものでした。異常心理だったのでしよう」
炎で真っ赤な空、桃色に染まった谷中の桜
先の吉村昭氏の自宅は4月13日の夜間空襲で焼けたが、印象に強く残る光景を見たという。
「夜間空襲は今から考えると、飛行日和で天気の良い目だったのですね。晴天の夜に来たものだから、星空が綺麗だった。逃げてる途中も焼夷弾が落ちてきて、緑色の光をパーッと放って目の前で散っていく。私は、すぐ側の谷中の墓地に逃げた。日暮里に住んでいる人というのは、『谷中の墓地の桜はいつが見頃だ』なんてしょっちゅう言っている。
終戦の頃はさすがにそんなことを言う人もいなくなったが、実際に行ってみると桜が満開だったのですよ。町がボンボン燃えていて、その反射で空が真っ赤、桜は桃色に染まっていた。あんな美しい桜は見たことがない。墓も赤いし、道路も人間も赤い。桜は桃色。強烈な光だから真っ赤になる。墓地一杯に避難してきた人が皆、ビックリして眺めていました」
焼夷弾の雨が降り注ぐ中、それもまた、ひときわ凄惨な光景であったろう。
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「その辺に真っ黒な死体が転がっていても、みんな感覚が麻痺していたのか、誰も見向きもしませんでした」――。第1回【「白い鯨のように夜空に浮かぶB-29」「髪の毛が鉋屑のように燃え上がる」…有名作家たちが語った「東京大空襲」の記憶】では、故林家三平師匠の夫人である海老名香葉子さんや作家の深田祐介氏、半藤一利氏らの体験談を伝える。
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