「遺体から立ち上る青い炎」「炎で空は真っ赤に、桜は桃色に染まっていた」…脳裏に焼き付いて離れない「東京大空襲」の記憶【3】
橋の両脇に炭化した遺体が積まれ
焼け跡の惨状は、数日間放置されたままだった。第1回で証言を伝えた、作家の深田祐介氏も語る。
「空襲の翌日に通っていた飯田橋にある中学に行ってみると、学校は全焼していました。すでに100人ほどの生徒が集まっていましたが、下町に住んでいたクラスメイトが登校してこないのです。それで数日後に同級生たちと都電に乗って下町に向かいましたが、一帯は強い死臭がまだ漂っており、トラックに遺体が積み上げられておりました。
私の親友は、明治座で亡くなったと彼の父親から聞きました。当時は安全だと思われていた明治座には、多数の市民が駆け込み、結果的にそこで多数の人が命を落としたのです。言問橋も両国橋も、炭化した死骸の山になっていた。死骸は両脇に積んで、真中を通れるようになっていたのですが、とても橋を渡れる心境ではありませんでした」
半年ほど経っても岸辺には遺体が浮かんだ
作家の吉村昭氏(77)は、当時、日暮里に住んでいたが、大空襲から1週間を過ぎた頃に、何度か被災地を訪ねたという。
「隅田川に尾竹橋というのがあって、自転車で通ると人が3、4人川面を眺めている。そこには死んだ人が30~40体浮かんでいた。ガスが溜まるからでしょう。それが不思議なことに、何故か1カ所に固まるのです。満潮になると橋の下が溜まり場になる。その死体は焼け焦げてはいませんでした。
中年の男性がコートみたいなものを着て、手提げ金庫を背中に括り付けていたり、赤ん坊を背負っている中年の主婦がいたり、若い女の人が俯せになって浮かんでいたり、学生服を着た中学生もいた。普通の顔で、腐乱なんかしていなかった。3月10日の空襲の後も、自分は生きてるってだけで、死んでいる人を見ても無感動になっていた」
前出の野田氏によれば、「その後、半年くらい経っても墨田公園の岸辺には遺体が時々上がっていた」という。
翌朝、一帯の様相が一変していた
3月10日以後も、都内は軒並み絨毯爆撃の恐怖に晒された。米軍の夜間空襲は容赦がなかった。
「米軍は軍需工場への空襲という大義名分ではなく、民家への無差別爆撃をするということがわかりましたから、いつかは我が家も狙われるだろうと覚悟はしておりました」
と話すのは、元興銀常務で、現在、日本証券クリアリング機構常勤監査役の岩瀬正氏(73)である。
「当時、池上線の戸越銀座の近くに住んでいましたが、4月15日に、大森・荏原の空襲でやられました。この日は、B-29が120機来襲したそうです。外は火の海でしたが、不思議と悲愴感はありませんでした。幸い、我が家を含めた一角が焼け残りましたが、翌日、明るくなってから見ると、一帯の様相は一変しており、見事な焼け野原になった光景が今でも眼に焼き付いています」
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