「遺体から立ち上る青い炎」「炎で空は真っ赤に、桜は桃色に染まっていた」…脳裏に焼き付いて離れない「東京大空襲」の記憶【3】

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第2回【「隅田川に入った家族」「神社に逃げ込んだ全員」が帰らぬ人に…下町が業火に包まれた「東京大空襲」で、生死を分けた瞬間とは】を読む

 3月10日の「東京大空襲」は、東京が受けた最初の大規模空襲である。家屋が密集する東京の下町地区を目標としたB-29は、最初に50キロの焼夷弾を4カ所に投下し、発生した火災を明かりとして使いながら、小型の油脂焼夷弾を投下していった。春先の強風に煽られた炎は約27万戸の家屋を焼き尽くし、罹災者は約100万人に達した。

 戦後80年を迎え、戦争を直接体験した人は少なくなった。「週刊新潮」が戦後60年の2005年に掲載した東京大空襲の体験談を紐解くと、取材に応じた作家の深田祐介氏や半藤一利氏を含む多くの語り部たちが世を去ったことがわかる。だが、先人たちの言葉は文字として残り続ける。

(全3回の第3回:「週刊新潮」2005年3月17日号「体験記『東京大空襲』60年」をもとに再構成しました。文中の年齢、役職等は掲載当時のままです)

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飛び出した内臓と青い炎

 空襲は収まっていたが、火災の勢いは止まらなかった。第2回にも登場した猪野一夫氏(73)らは、火の手を迂回しながら墨田区の業平橋の辺りで、当時は都電が走っていた線路の上で難を逃れた。

「都電は御影石を敷いていて、その石の上に線路があったのです。両側のアスフアルト道路は燃えている。アスファルトは熱で簡単に溶け、それがくっつくと大火傷になる。だから線路の敷石の上で夜明かしをすることにしたのです。火災のピークは過ぎていましたが、両側は燃えているので、サウナに入ったくらいの温度です。ですが、そこしか居場所がなかったのです。近所の人たちと一緒に一列に並び、前の人の背中を見て、火が付いたら消してやるという作業をしながら一夜を明かしたのです」

 上空は一面、鉛色を赤くしたような色に染まっており、煙で見通しは悪かったという。昼頃、父親と船橋に向けて歩き始めるが、途中、陰惨な死体を何度も見た。

「一番驚いたのは、死体のお腹の穴から内臓が飛び出していて、リンが燃えていたのでしょうか、それが青い炎を出していることでした。さらにお母さんが防火用水の中に、ちょうど赤ちゃんを抱いて入った形で焼けていました。熱いから、赤ちゃんを水につけて助けようと思ったのでしょうね。髪の毛や衣服はもう燃えてしまって、黒焦げの裸になっていました」

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