「隅田川に入った家族」「神社に逃げ込んだ全員」が帰らぬ人に…下町が業火に包まれた「東京大空襲」で、生死を分けた瞬間とは【2】
言問橋の惨状は「今でも思い出したくない」
墨田公園に必死の思いで辿り着いた野田氏は、小山になっている塚の陰に隠れていたために、猛火を避けることができた。それでも左腿には、火傷の痕が今も残っているという。消防団の活動のため、別れ別れになっていた父親とは、朝方再会した。
「父は、言問橋を渡ったところで、欄干を越えて川に飛び込もうとしたそうです。ところが川と思ったところが道路で、そのために怪我をした。そのおかげで助かった。兄と姉は、私たちとはバラバラに逃げたはずですが、予想以上に火の回りが早かったため、どこかで焼死したのでしょう」
野田氏が見た光景もまた悲惨だった。
「言問橋の上には、焼死体が山となっており、人が通れない程でした。着ている物も肌も真っ黒に焼けて、男女の見極めもつかなかった。火が服に燃え移ったからなのでしょうか、橋の上ですら火の海になったようです。言問橋の惨状は、今でも思い出したくありません」
亡くなった家族の遺体は見つからなかった。
「憲兵隊が、上野の山に遺体を集めていました。1.5メートルくらいの長さの鳶の道具を使って、トラックに山積みにした死体を降ろしていくのです。今の時代であれば、とてもそんな風に雑な扱いはしないでしょう。しかし当時の状況から言えば、それを非難することは誰にもできませんでした」
関東大震災の経験者から得た知識
カメラ部品の製造業を営んでいた猪野一夫氏(73)は、当時、本所の東駒形に住んでいた。母親と兄弟は千葉県船橋市に先に避難。自宅には父親と2人で住んでいた。
「家には12~13畳の大きな地下室があり、近所の人たちが空襲になると集まってきて賑やかでした。それまでは、そんなに恐い思いはしたことがなかったのです」
と猪野氏は回想する。しかし、その日の大空襲ばかりは地下室では凌げなかった。
「午前2時頃まで地下室の中にいました。上に人が何度か様子を見に行ったんですが、もう周りは火の海になっており、類焼、類焼で、火の塊が津波のようにワーッと近づいてくるのです。中には関東大震災の生き残りがいて、火災についての知識がありました。そこで、火に追いかけられて風下に行くと逃げ場を失うから、火を迂回しながら風上に逃げることにした。さらに荷物を極力少なくしろというのも鉄則でした」
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「半年くらい経っても墨田公園の岸辺には遺体が時々上がっていた」――。第3回【「遺体から立ち上る青い炎」「炎で空は真っ赤に、桜は桃色に染まっていた」…脳裏に焼き付いて離れない「東京大空襲」の記憶】では、東京大空襲後の悲惨な町中の様子や、その後も続いた大規模空襲と追い詰められた住民たちの“異常心理”などが語られている。
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