「隅田川に入った家族」「神社に逃げ込んだ全員」が帰らぬ人に…下町が業火に包まれた「東京大空襲」で、生死を分けた瞬間とは【2】

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避難先の神社が満員で…生死を分けた選択

 富田さんの家族が最初に避難した先は、亀戸にある天祖神社だったが、そこはすでに被災者で一杯になっており、見張り番の女性がいて立ち入ることを許されなかったという。そこでやむなく錦糸町方向へ逃げ、高台を走る総武線の線路下に避難したが、それが生死を分けた。

「人間わからないものです。天祖神社の境内に逃げ込んだ人たちは、全員蒸し焼きになったと聞きました。境内には防空壕がありますが、周りが燃えれば自然と火が入ってしまい、一気に燃え上がってしまったようです」

 逃げる途中で家族はバラバラになったが、幸い全員が無事だった。

「空襲が止み、夜が明けてから家まで歩きました。戻る途中、道端には死骸が山ほど、男も女も俯せになって倒れていた姿が今でも忘れることができません。髪の毛や洋服も焦げて、こげ茶色になっているのですから、男女の判別もできませんでした。死体を片付けるために、恐らくは軍の人たちがトラックにスコップを使って死体を投げている光景を目にしましたが、涙も出なければ、もはや何も感じませんでした」

火が熱い…川に入るか、入らないか?

 大友建設株式会社の野田證二社長(68)は、祖父母の代から浅草の千束に住んでいた。その日の空襲で、父親と野田氏は生き延びたが、母親と兄、2人の姉と2人の幼い妹を亡くした。

「最初は近くの浅草寺に向かおうとしましたが、その時点で浅草寺の木造の観音様が燃えていたために危険だと思い、墨田公園に向かうことにしたのです。当時は陸軍の高射砲陣地でもありました」

 と、野田氏は語る。

「まだ3月ですから相当に寒かったことを覚えています。季節風が猛烈な勢いで、地を遣うように火と一緒になって吹いてきました。上からだけでなく、下からも熱風が吹き荒れるのです。そのために眼の中が真っ黒になり、ほとんど見えなくなりました」

 ここで家族の生死が分かれた。

「あまりの火の勢いと熱さで、母と妹たちは隅田川に入って行きました。理由は記憶にないのですが、私は入りませんでした。結局、ここで母や妹たちは命を落とし、逃げた私だけが生き延びたのですから、わからないものです。川に入って亡くなったのは、火から逃れた人々が、上から横から入ってくるために、押されて溺れてしまうからです。母親たちも、おそらくは溺死だったでしょう」

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