「隅田川に入った家族」「神社に逃げ込んだ全員」が帰らぬ人に…下町が業火に包まれた「東京大空襲」で、生死を分けた瞬間とは【2】

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第1回【「白い鯨のように夜空に浮かぶB-29」「髪の毛が鉋屑のように燃え上がる」…有名作家たちが語った「東京大空襲」の記憶】を読む

 3月10日の「東京大空襲」は、東京が受けた最初の大規模空襲である。家屋が密集する東京の下町地区を目標としたB-29は、最初に50キロの焼夷弾を4カ所に投下し、発生した火災を明かりとして使いながら、小型の油脂焼夷弾を投下していった。春先の強風に煽られた炎は約27万戸の家屋を焼き尽くし、罹災者は約100万人に達した。

 戦後80年を迎え、戦争を直接体験した人は少なくなった。「週刊新潮」が戦後60年の2005年に掲載した東京大空襲の体験談を紐解くと、取材に応じた作家の深田祐介氏や半藤一利氏を含む多くの語り部たちが世を去ったことがわかる。だが、先人たちの言葉は文字として残り続ける。

(全3回の第2回:「週刊新潮」2005年3月17日号「体験記『東京大空襲』60年」をもとに再構成しました。文中の年齢、役職等は掲載当時のままです)

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B-29の爆音と空襲警報で大変な騒音

 浅草の料亭の仲居だった富田稲子さん(80)は、当時20歳で、日比谷にある協同組合で働いていた。自宅は城東区亀戸(現在の江東区)にあり、両親と妹の4人で住んでいた。

「空襲警報が鳴ったとき、2階で寝ていましたが、突然、爆風で家の戸という戸、窓が全て吹き飛んでしまい、それで目が覚めました」

 と富田さんはいう。

「外に出ると、徐々に火が家々を襲い始めている様子でした。消防団員や警官らしき方が道を誘導してくれたのですが、その道さえも火の海でした。中には火を除けるために縞布団を背負って逃げる人もいましたが、それすら爆風で飛ばされ、舞っている有様でした。

 B-29だけでなく、空襲警報の音も鳴り響き、大変な騒音です。空にはB-29が物凄い列になって焼夷弾をどんどん落としていきましたが、焼夷弾には水色や黄色の布が付いていて、それがヒラヒラと落ちてくる光景は綺麗なものに見えました」

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