「白い鯨のように夜空に浮かぶB-29」「髪の毛が鉋屑のように燃え上がる」…有名作家たちが語った「東京大空襲」の記憶【1】
春先の強風に煽られた猛火
日本本土が受けた最初の空襲は1942年4月18日、米軍のB-25戦闘機による東京や川崎、神戸、名古屋などへの「ドゥーリトル空襲」だった。以後の2年間は本土空襲がなかったものの、44年にはB-29大型爆撃機による6月の北九州(八幡)、10月の沖縄に続き、11月24日からは東京への爆撃が始まる。以後、終戦までに東京都が受けた空襲の数は100回以上におよんだ。
3月10日の「東京大空襲」は、東京が受けた最初の大規模空襲である。家屋が密集する東京の下町地区を目標としたB-29は、最初に50キロの焼夷弾を4カ所に投下し、発生した火災を明かりとして使いながら、小型の油脂焼夷弾を投下していった。春先の強風に煽られた炎は約27万戸の家屋を焼き尽くし、罹災者は約100万人に達した。
米軍は間髪を入れず、12日と19日に名古屋、13日に大阪、17日に神戸、19日に広島・呉軍港など各地での空襲攻撃を展開する。東京も4月に2回、5月に2回の大規模空襲を受けた。沖縄戦や5月のドイツ無条件降伏、8月の広島・長崎原爆投下を挟んでもなお、玉音放送が流れる8月15日まで日本各地では空襲が続いていた。
戦後80年を迎え、戦争を直接体験した人は少なくなった。「週刊新潮」が戦後60年の2005年に掲載した東京大空襲の体験談を紐解くと、取材に応じた作家の深田祐介氏や半藤一利氏を含む多くの語り部たちが世を去ったことがわかる。だが、先人たちの言葉は文字として残り続ける。
(全3回の第1回:「週刊新潮」2005年3月17日号「体験記『東京大空襲』60年」をもとに再構成しました。文中の年齢、役職等は掲載当時のままです)
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静岡・沼津の山からも見えた「東京の赤い空」
2005年3月9日、故林家三平師匠の夫人である海老名香葉子さん(71)は、台東区の上野公園内に慰霊の碑を建立した。当時、同公園には数えきれないほどの身元不明遺体が収容されていたのである。
日本の敗戦が濃厚となった1945(昭和20)年3月10日午前零時過ぎ、グアム、サイパン、テニアンの各飛行場から飛び立った334機のB-29は、闇に紛れて低空飛行で東京湾から都内に侵入。2時間半にわたって膨大な数の焼夷弾を投下し、深川、本所、浅草など(現在の江東、墨田、台東区)、人口密集地帯の下町を完膚なきまでに焼き尽くした。
海老名さんの実家は本所区(現在の墨田区本所)にあり、釣竿屋を営んでいたが、この空襲により、祖母と両親、2人の兄と弟の6人を一度に失った。
当時、国民学校の5年生だった海老名さんは、ただひとり静岡県沼津市に疎開していた。東京が大空襲に見舞われていた深夜、彼女は空襲警報により近くの山に退避していた。海老名さんは振り返る。
「頂上付近まで登ったら、大人たちが『東京の空が赤いぞ』と叫んでいました。見ると、薄ぼんやりと赤く染まっていたのです。私は心配になって神様に『どうかみんな無事でいますように』と一心に祈りました。そのときは東京で何が起こっているのかわかりませんでした。翌日、学校で友達から『本所、深川は全滅だよ』と聞かされたのです」
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