バロン西と共に散ったもう一人のメダリスト「河石達吾」 “硫黄島からの手紙”に遺した息子への思い(小林信也)

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〈悦に入って居る〉

 7月、達吾は広島から出航。配属先は小笠原諸島の硫黄島だった。

“硫黄島の戦い”はアメリカ海兵隊史上「最も野蛮で高価な戦い」と呼ばれる。太平洋戦争末期の45年2月19日から3月26日まで、米軍と日本軍が激しい戦闘を展開した。米軍25万の圧倒的兵力に、日本軍わずか約2万。本土からの援軍もなく、ほぼ全員が玉砕した。その中に32年ロス五輪馬術障害飛越で金メダルを取ったバロン西(西竹一)もいた。戦車第26連隊長の西は、五輪で共に戦った愛馬ウラヌスの写真を胸に、硫黄島で散った。本来あるはずの未来を硫黄島の悲惨な戦闘で奪われたメダリストは西の他に、もう一人いた。それが達吾だ。

 クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」を見ると、想像を絶する惨禍が描かれている。人権も尊厳もじゅうりんされ、国家の大義のため犠牲を強要される。そのような蛮行が地球上でいまも続き、国内にも戦争に向かう空気がくすぶっている。

 達吾は出征から半年後の12月6日、輝子が無事、男子を出産したと手紙で知らされる。達吾は硫黄島から妻子に手紙を送った。

〈吉報に接した時の感じは競技に於いて勝利を獲た時のそれと同じだ〉

 いま尼崎で暮らす達吾の長男・河石達雄を訪ねると、手紙を広げて話してくれた。

「父は控えめで物静かな人だと多くの人が証言しています。けれど私の誕生を知った時には喜びを爆発させているのです」

 細かな達筆で書かれた手紙の中で、ひときわ目立つ大きな文字で「河石達雄」と記されている。あらかじめ達吾が決めていた名前だ。

〈河石達雄 と呼ぶと いかめしい中にやわらかみもある様に思はれ 非常に立派だ などと 独りで悦に入って居る〉

 別の手紙では、〈この子が三歳になったら泳がせろ〉とも書かれている。だが、親子で泳ぐ夢は戦火に引き裂かれた。

 遺された輝子は、達吾が「必ずどこかで生きている」と言い続け、誰に説得されても、墓を建てようとしなかった。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部などを経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』『武術に学ぶスポーツ進化論』など著書多数。

週刊新潮 2025年3月6日号掲載

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