バロン西と共に散ったもう一人のメダリスト「河石達吾」 “硫黄島からの手紙”に遺した息子への思い(小林信也)

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 河石達吾は、1932年8月、ロサンゼルス五輪の水泳男子100メートル自由形に出場した。慶應大学の2年生、20歳の夏だった。

 男子全6種目で金メダルを狙う日本勢の先陣を切って100メートル自由形が行われた。

 最初に泳いだ達吾は苦戦した。1次予選第2組、アメリカ、カナダの強豪に遅れ3位。3組の高橋成夫、4組宮崎康二は1着通過したが、達吾は辛うじてベストサードで準決勝に残った。

 大舞台の緊張感が達吾の体を縛っていた。ギリギリで救われ開き直れた達吾の覚醒がここで起こった。

 宮崎が準決勝1組で五輪新の58秒0、1位通過を決めた後の2組に達吾は高橋と登場した。『第十回オリムピック画報』(興文社)が詳しく報じている。

〈河石君は第四位を泳いで五十米(メートル)のターン(中略)形勢は漸く切迫、七十米(メートル)を過ぎて第四位にあつた河石君の物凄いスパートは、遂にシュワルツを抜いて先頭に立ち、其の儘他の追泳を許さず、第一着となつて第一予選に見せた不安を一掃してしまつた〉

 決勝では宮崎が残り20メートルでトップに立ち、58秒2で優勝。後続はまれに見る接戦となり、最後に達吾が逆転して2位に入った。

「負けたと思ったが、せめてタッチで頑張ろうと、いっぱいに手を伸ばした」

 という達吾のコメントが残されている。懸命のタッチのかいあって達吾は銀メダルに輝いた。

 宮崎と達吾が金銀を取った勢いか、日本男子は5個の金、4個の銀、2個の銅を獲得した。

福澤邸の書生に

 達吾の経歴で興味深いのは慶應在学中、目黒の福澤邸の書生だったこと。慶應義塾の創始者・福澤諭吉直系のお屋敷にいたのは、才覚と人格を見込まれていたからだろう。

 達吾の人となりは、ロス五輪の200メートル平泳ぎで銀メダルを取った小池禮三(元日本水泳連盟専務理事)が静岡新聞に寄せた回想につづられている。

〈私はこの河石さんがとても好きで尊敬しておりました。河石さんは静かな口数の少ない方でしたが、接すると非常に温かみがあり、それでいてスカッとしたところがあり、こんな河石さんに魅力を感じていた〉

 水泳部では主将を務め、卒業後は福澤家の紹介で、五大電力会社の一つ大同電力に入社した。後に解散し、関西電力、中部電力、北陸電力に継承された。初代社長は福澤諭吉の婿養子・福澤桃介。達吾はいずれ重責を担う期待をかけられていたのだろう。しかし、達吾の人生は戦争によって道半ばで失われる。

 達吾は38年、陸軍に召集され、39年には中国戦線に従軍する。5年後、陸軍少尉で除隊。そして44年6月、再び召集を受けた。前年10月に結婚した妻・輝子は新しい命を授かっていた。出征する時、見送りに来た兄嫁に達吾は、

「二度と生きては帰れません。後のことはくれぐれもよろしく」と言い残したという。わが子との対面がかなわないと覚悟していた……。一体なぜ、そんな覚悟を迫られるのか。戦争のひどさに胸が張り裂けそうになる。

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