バロン西と共に散ったもう一人のメダリスト「河石達吾」 “硫黄島からの手紙”に遺した息子への思い(小林信也)

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 河石達吾は、1932年8月、ロサンゼルス五輪の水泳男子100メートル自由形に出場した。慶應大学の2年生、20歳の夏だった。

 男子全6種目で金メダルを狙う日本勢の先陣を切って100メートル自由形が行われた。

 最初に泳いだ達吾は苦戦した。1次予選第2組、アメリカ、カナダの強豪に遅れ3位。3組の高橋成夫、4組宮崎康二は1着通過したが、達吾は辛うじてベストサードで準決勝に残った。

 大舞台の緊張感が達吾の体を縛っていた。ギリギリで救われ開き直れた達吾の覚醒がここで起こった。...

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